土曜日。土曜日

★8,11-

  • ちょっと久し振りにネットを徘徊してみたら気持ちの悪い文章を見つけた。ここに書くことでもないが書くことにした。自分が気持ち悪いと思っているということを書くということはこういうことだ。いやきっとこういうことなのだろう。書いて気分が晴れるわけでもない。では何故書くのだ。それはこの気持ち悪さを振り撒きたいからに他ならない。自分が抱えた気分の悪さを公共の場所に陳列したいのだ。そしてあわよくば、この気分の悪さを共有させたい。不快なことを書く人物はその不快さを読み手に与えたいに違いない。何故だ? 正気の沙汰とは思えない。きっと、何かそればかりではない理由があるに違いない。きっと、自分は他の人間とは違ってこんなことも思うし書いてしまうんだというような、そういう気分があるに違いない。「そうとも」。「あるとも」。そのように答えるだろうか?
  • 何のことだか分からない方は分からないままでいて頂きたく思います。何のことだか分からない方までをも不快にすることは私の本意ではありませんから。或いは、「所詮は気の迷いの繰り言に過ぎませんから」? -8,23

★8,45-

  • 或いは自分の書く文章が鑑賞に値すると思っているからだろう。実に高邁な理由だ。それであれば許されるに違いない。但しその場合にはその文章の真理性は必ずしも履行されずともよいのだから、もしかしたらその書き手はそれでは不満かも知れない。
  • それにしても小説には一体何が書いてあるのだろうか。論文には知識が書いてあるとしてだ。物語か? そりゃあ物語かも知れないが。さてとりあえず鑑賞に値するものが書いてあるとして、それでは一体鑑賞とは何で、鑑賞に値しない作品には一体何が書いてあるのだろう。文字列以上の何が。とりあえずそれは第三世界の存在者だと思うが、なるほどきっとそれらはなにがしかの価値基準に従って序列されるに違いない。
  • 頭の痛いことだ。-8,56

★9,00-

  • 「白い白いセーターに/赤い赤いチューリップ」という歌詞を含む、演歌調の歌を探しているということをメモしておこう。
  • 一体この歌詞がどれだけのもので、曲がどれだけのものかということも、算定されうるのだろうか。算定されうるのだろうな。
  • 烈火の炎』は『幽☆遊☆白書』 のパクリだとしてすこぶる評価が低い(あんなに面白いのになあ!)。パクリが悪く、パロディが悪くない理由は何だろうか。いや、パロディも悪いとされているのかも知れないが。パクリは一次資料が存在せずとも自分は存在するというような顔をしているから気に食わないのだろうか。一次資料をないがしろにしているからだろうか。確かに『幽☆遊☆白書』を知らない読者はそれで満足してしまうかも知れない。それであれば『烈火の炎』を非難するには『幽☆遊☆白書』を知っている必要がある。
  • ところでそのとき『烈火の炎』の面白さはどこに行ってしまったのだろうか。借り物だから『幽☆遊☆白書』の元に帰ったのだろうか。偽善とは何が違うのだろうか。下心から人を助けて謝礼をもらう人の、その「助け」の良さは、どうなってしまったのだろうか。下心の悪さに打ち消されたのだろうか。下心の悪さに打ち消されたとして、さて『烈火の炎』の面白さがパクリという難点に打ち消されたとして、そのとき『幽☆遊☆白書』の元に帰るべき「良さ」は、どこに行ったのだろうか。(あ、打ち消されたのか。比喩を使うからこんな風に混乱する)
  • 一人より三十人の方がいいのだろうか。彼女が持っているルビーの指輪が欲しいとき、同じものを買うのはどういうことだろうか。それによく似たレプリカを買うのはどういうことだろうか。彼女からその指輪を奪うことは、『幽☆遊☆白書』をどうすることだろうか。それともそれは奪えないのだろうか。奪えないのだろうなあ。ところで全く同じ指輪が二個並んでいる姿は、気持ちの悪いものだろうか。本物に偽物が並べられたとき、偽物をありがたがっていた人はどう思うだろうか。
  • 全く同じ作品が二つ並ぶということは、ありえないことなのかも知れない。何しろタイムスタンプが異なるから。本当か? 同じ作者の、同じ出版社から同じ名前で出版された、同じ版で同じ刷数に属する、同じ本屋で一緒に買った二冊の本は、身分が異なるか? それぐらいなら同一の本だと言っていい気がする。それであれば、同一性の条件を吟味することが出来るようになるだろう。だが本当に同一か? 程度問題か? 少なくとも内容は時間的だと言うことは出来そうだが。
  • 読んだ人を不愉快にさせるようなことを書いてもそれが鑑賞を目的とするものであるときには許されるというのは、それが真理性を主張しないからだろう。それは言明ではなく、技芸であり、その内容を事実だと言い張らないものとして見えるからではなかろうか。きっとその内容をその通りだとして受け入れるよう、強要してくるから不愉快になるのであって、これこれこのような言葉遣いは鑑賞に値するだろうと主張するのであれば、きっとその内容は偽であっても構わないだろう。
  • ところでやはり、鑑賞に値せず、また偽(或いは不正)である内容は、一体何だろうか。「文字が書いてあるだけメモにも使えず、紙が硬いだけトイレット・ペーパーにも劣る」という物言いは、どこで読んだのだったか。もしかしてこういうことを指しているのだろうか。それとも内容は、さらなる評価基準で測られうるのだろうか。測られうるとしたら、それはどのような基準だろうか。権威か。それもまた実に高邁なことだ。きっと許されるに違いない。(ああそうか、何ごとかを書くだけのことは自由によって許されているのか。自由とは全く素晴らしいことだ)
  • 頭の痛いことだ。-10,03

★10,26-

  • それにしても一体自分がここに書いていることは鑑賞に値するのか真なのか正なのか、或いは権威に基づいているのか。そして或いは、書く自由によってのみ許されているのか。願わくば鑑賞に値するように。或いはなるべく真であるように。まあ最低でも書く自由によっては許されているように。それと大体、少々妖しいけど正であるように。ブログの形式は書くことを簡単にしてくれたけれど、一体私はここで何を書いているのだ。その内容は、何に照らして義だ。願わくば美であるように。そのためには真でなくとも。
  • 書くことを鑑賞という目的が許す状況は希有なことか。希有なことかも知れない。書くことを自由ということが許す状況は希有なことか。全く希有なことだ。
  • 「紙面を汚す」ということはきっと謙譲の表現だろうが、そういうことが本当に起こりうるのか否か。もし本当に起こりうるとしたらそれは本当に恐ろしいことだ。
  • まことに頭の痛いことだ。-10,40

★10,43-

  • というか本当に気持ち悪くなってきた。そんなに体調が悪くなっているのだろうか。というかこんなに体調が悪くなっているだなんて。いや、体調ではない。それでは何だ。いや、やはり体調か。
  • どうせまた書いたことを後悔するに違いない。いや、きっと眠いのだ。-10,44