• 昨日のコメント欄で言った「なお、『こどものじかん』は二巻以降を買っていないよ。ちょっと話の運びが暗いのでね」、「暗い話ではなくて、救いのない話は大好きなんだけどね」という文言には、矢張りというか、問題がある。既にオペラには気付かれているようなので、もう隠し立ては出来まい。
  • さて、おれは、正確には何を言おうとしていたのだろうか。少なくとも、あのおれのコメントは正確ではなかった。「暗い話」と「救いのない話」は排他的ではなくて、両立する場合があろう(それは勿論、「救いがなくて暗い話」だ。そんなものは普通、容易に想像できる)。普通の意味合いではそうだ。だから、あのままの文字面では、不正確な言い方でしかない。
  • バイトに行かねばならないのでメモをしておこう。着想なので余り説明はしない。
  • 既に話題は「感情移入」の問題圏に入っている、と言えそうだ。おれが嫌がっているのは、読者たるこのおれが嫌な気持ちになることである。「話の運びが暗い」話は、おれを嫌な気持ちにさせる。しかし、その一方で、「救いがない」だけで読者たるおれが嫌な気持ちにならない話は、大好きだ。この心持ちには、その「救いのなさ」に爽快感を感じている、ということがあるに違いない。だから、「暗い話」とは「話の運びが暗い」話のことでしかなさそうだ。どうも、「話の運びが暗い」話は、読者たるおれを「感情移入」させ、その話を「暗く」する。しかし、「話の運びが暗」くない話は、おれに「感情移入」させることがないから、その話は「暗く」なく、そこに「救い」がなくともおれは嫌な気持ちにはならない、ということであるらしい。それを誇張して、「救いのない」ことと「暗い」ことは排他的だと感じたに違いない。おれは、「救いのない」ということで「暗」くないということを意味させようとしていたのだ。
  • というわけで、正確に言うと、おれは、「話の運びが暗い話は嫌いだなあ。でも、話の運びが暗くなければ、たとえ救いが無くてもいい。というよりむしろ、話の運びが暗くなく、且つ救いのない話が大好きだ」ということであるらしい。
  • さてそれでは、「感情移入」とは一体正確に言ってなんであるか、ということになるが、まあその、それはまああとからおいおい考えることにしていいかなあ。