ホワイトハウスの面白味

  • 「具体例を出すとネタバレになるのでそれは控えておきますが、ちょっと言ってみれば、伏線が滅茶苦茶に長かったり、台詞を使わずにメッセージを伝えていることを理解する必要があったり、いかにもアメリカンなウィット系であり・そこでの話題を踏まえていないと分からないジョーク(皮肉)が頻発したり、と、大体に於いてちょっと考えないと分からない仕掛けが入っているのでこれが分かると楽しい、というのがまずありますかね。」
  • 「それからもうちょっと内容に近づいたところでは、何しろ大統領とそれを取り巻くホワイトハウス職員たちの日常を描いている作品なので、アメリカの政治に関わるトピックが多発するというところがいいですね。まあアメリカの政治というと外交の問題が思い浮かぶことが多いけれど、案外、というか、アメリカのテレビドラマなんだから当たり前なんだけれども内政の話もかなり多い。貧困の問題とか人種・男女差別の問題とか、教育の問題とか医療の問題とか。宗教の話もあるし、裁判・訴訟の話も出てくる。この作品内の政権は民主党政権で、共和党との党派対立もするのだけれど、彼らと折衝するときの議論からそれぞれの立場が窺い知られたりする(こともある。正直この辺はよく分かっていない)。こういうドラマがアメリカ国内で流されて高評価を勝ち取ったのだから、確かにアメリカ国民にとってこういう問題はまさに現実的なものとして受け取られたのだろう、と想像するのも楽しい。」
  • 「勿論外交の話もあって、中国からの宗教的迫害による移民の話や、冷戦で対立していたソビエトの後継としてのロシアとの微妙な対立が描かれたり、アフリカの武断派の大統領本人がエイズ対策のために国を留守にして製薬会社との折衝にやってくる話とか、コロンビアの麻薬組織との・「麻薬戦争」と言われるほどの争いなども語られる。また、ブラジル(だったかな)の経済が破綻しそうになったときに作品中の政権は経済援助することを決めるのだけれど、その際の是非についても、対立する二つの立場が語られたりする。そりゃあ勿論これはドラマなのだけれど、どの問題についても政府内では討論が繰り返され、逐一(視聴者にとっても)尤もと思える理由から政治的決断が為されてゆくのを見ると、ああそりゃ当然だよなと、超大国の決断なのだから如何に短絡的に見えようとも内部にはこうした葛藤があるのだよな、と、現実のアメリカについても思いが及ぶ。これも楽しい。勿論、国々のあいだの微妙な力関係や、過去の恩義・歴史的な経緯に基づく義務などの機微を理解するのも面白いのだけれど。」
  • 「更に内容に入って、登場人物のことにも触れてみよう。この『ホワイトハウス』には、一回限りのゲストのような人物も登場するが、相当の頻度で登場するメインの登場人物が大勢いる。役職・立場で挙げてみると(覚えている限りフルネームで人物名を添えてみる)、大統領(ジェド・バードレット)、大統領私設秘書(チャーリー)、公設秘書(?)(ドロレス・ランディハム)、首席補佐官(レオ・マクギャリー)、首席補佐官秘書(マーガレット)、広報部部長(トビー・ジーグラー)、広報部次長(次席補佐官?)(サム・シーボーン)、報道官(C. J. クレッグ)、政策担当事務次官(?)(ジョシュ・ライマン)、政策担当事務次官秘書(ドナ)、ファーストレディー(アビー・バートレット)、大統領の娘(ゾーイ)、アナリスト(ジョーイ・ルーカス)、法律顧問(二人出てくる)、将軍(フィッツウォレス)、ホワイトハウス付き新聞記者(ダニー)、法律顧問(共和党員)(エインズリー・ヘイズ)、副大統領(ホインズ)……。誰か忘れてるかも知れないけれど、これぐらいにしておこう。これらざっと十八人ぐらいの人物が特別な紹介(テロップとか)も無しに登場してきてのべつ幕無く話しまくる、というのが『ホワイトハウス』の実際のところだろうと思う。勿論肩書きでしか呼ばれない人物もいるのだけれど(大統領は大体「大統領」と呼ばれる)、少なくとも DVD-BOX で一気に見ると顔と共に名前を覚えてしまうぐらいには、どの人物もキャラクターが立っている。採り上げられる話題は政治的なものだけれど、そういう意味では人物たちの対話やそれ以外の行為でこの作品は占められている。これらの人物たちの性格特徴に依拠したエピソード作りも行われている。例えば官僚の何人かがユダヤ人であることにフォーカスしながら死刑制度のことを採り上げたり(これは第一期)、或るメインキャラクターが黒人であることから人種差別の問題を採り上げたりする。また政治のことばかりではなく PTSD にスポットを当ててみたり、或いは有能な聾の人物を政府に登用させて・実に聾唖者が差別されていないことを描いてみたりする。こうした登場人物たちは総じて自分の仕事に誇りを持っており、また大抵社会を幸福にしようと議論に基づいて正しい判断をしようとする。それぞれにはそれぞれの思考傾向や立場、主義があるのだが、互いに意見を述べ合って、相手の議論が尤もらしいと思われば自説を曲げることも厭わない。そして多くに於いて躊躇わずにその政策を実行する。躊躇いが画面に描かれるのは、主に大統領が軍事的な決断をするときにである。この落差の演出は寧ろ人命が如何に尊重されているかを表していると見るのがいいだろう(米国の大統領が幕僚に煙草を持っていないか聞く、など。)。彼らの話すスピードや、議論の展開するスピード、決断や問題への対処のスピードは速く、政治の中枢にいる人物たちは本当に有能なエリートで、こいつらはかっこいいエリートだ。彼らは統計の数字をよく覚えており、報道官は大統領の一般教書演説のワード数を大体知っていた。相手を説得するに際しては、正攻法の反論を立てることもあれば相手の議論を皮肉的に応用してみせることもするし、見返りをちらつかせる交渉術も使う。そして怒鳴り付けにどれほど効果がないかをよく知っている。それでも、時には怒鳴ってしまうし、家族との不和から精神状態を損ねることもある。そして時たま同僚同士で酒盛りをする場面も描かれるし、彼らは良く互いにジョークとも皮肉ともつかない遣り取りをする。魅力的なのだ。政治家、官僚もいいものじゃないか。」
  • 「脚本というのが正確に何を指すかはよく知らないのだけれど、ともかくこの作品では、ちょっとまともに考えると外連味が過ぎてそれはどうなの、ということになるはずの事柄が物語の山場を成している。さすがにこの辺の分かりやすい波瀾万丈を忘れずに盛り込んでくる辺りも、テレビドラマとしての本分を全うしているというか、まあ実にサービス精神の強いところだ。『ホワイトハウス』の脚本家はアーロン・ソーキンという人物なのだが、上で言ったような話題を精緻に描く手法で、本気でお涙頂戴のエピソードを書くと、凶悪なことが起こる。特に次シリーズへの「引き」には殆ど卑怯とも言うべき誘引力があり、第二期の最終版は、このお涙頂戴と「引き」の両方が行われていて、そりゃあもうアマゾンから第三期の DVD-BOX が発送されてくる時期だ。また普段のマシンガントークの対話劇から一歩引いて、たまに語りの構成を変えることがある。登場人物の一人がテレビ番組に出演してホワイトハウスの一日を語る、という形式にしてみたり、精神科医のセラピーで登場人物がその日にあった事柄を回想・描写する中でドラマを描いてみたりする。こうした形式を採った場合、そうした設定(テレビ番組やセラピー)にリアリティを込めて表現したり、或いは特別な落ちを付けたりしないとその他の回と比べて不格好になるものだが、抜かりない。毎回の冒頭にはそれまでの粗筋、或いはその回を理解するための最小の前提知識が回想され、また登場人物たちによるウィットの効いたトークが示される。それは軽い冗談であったり、その回を通じて繰り返される決めゼリフの振りであったり、その回のテーマとして採り上げられる話題の発端などであったりする。そして、はっとする表現の直後に、オープニングが流れ、星条旗が風に翻る。これらはテレビドラマにはお定まりの形式だと言えばそれまでかも知れないが、その冒頭から話の運び、脚本の巧みさが知られる。メリケン調の演出が気になるかも知れないが、それならば『ホワイトハウス』が最良のメリケン調だと思う。これが駄目なら、どのアメリカン・ドラマも駄目なのだろう。」
  • 「しかしやっぱり、強調しておきたいのは台詞のテキストが良いということだ。主に日本語吹き替えで見ているだけで、英語では見ていないのだけれど、少なくともその限りで、やはり台詞がいい。良く出来ている。大統領が不遜な客をやりこめる際の演説とも皮肉のスピーチともつかない、即興のトークは、大統領を過度に尊大にせず、しかしながら尊敬させる言い回しだ。そしてその演説に対して自ら(隠れて)付け加えたコメントは、それまでの話の流れから見て納得のいくものになっている。報道官は大勢の記者を相手にし、質問攻めには簡潔に応えて他をはぐらかす。しかしそれは政府の顔として余り毒の強すぎないジョークでなくてはならない。イギリスからの在米大使のマーベリー卿は英国王室の血を引いているらしい。彼はだからそれにちなんだジョークを使う。大統領には恭しく、だが他国の大統領(即ち民衆の王)なので心の底では尊敬していないぞという演技をしてみせる(勿論それがジョークであると大統領も理解している)。マーベリー卿は首席補佐官の名前を覚えない振りをする。そしてその都度首席補佐官は自分の名前を言って過度に真摯する。大統領私設秘書が調子に乗った大統領に言わねばならない皮肉はそれ相応に抑えの効いたもので、大統領は彼に皮肉を言われたことを更にジョークにする。正式な学位のない(確か大学を中退した)秘書が上司にする質問・意見は、理論的、或いは統計に則ったものではなくて、自分の身近な例や素直な感情から来る率直なものだ。これに返すその上司からの回答は、過度に抽象的になることを避けて、例を使った説得的なものが多い。各キャラクターの立場や思考様式を良く踏まえて、それを良く反映した台詞作りになっているのだ。」
  • 「というところですかね。また何かあったら書くということで、この辺で。」