「…………その、何て言うかな。難しい問題だと思うぜ。ああ難しい問題だ。その、よく分かんないんだけど凄さと難しさだけは感じるよ。」
「じゃあ僕は、このあいだ見つけた非常にパンクなテキストを紹介することにするよ。表題とか出典は最後に掲げることにして、まずは先入見なくそのパンク振りを感じ取って頂きたいと思う。」

  「足が地についていない」などと、自称リアリストは夢想家をけなす。だが、リアリストは、しばしば無節操にもみえる。彼もまた、「現実的」適応を口実とし、「風に吹かれて」ゆれ動くのである。
  ひとは、たまゆらのごとく「この世」にあらわれては、やがていずこへか消え去ってゆく。「日常」とは一つの矛盾でしかない。日々は流れ、常なるものはなにもない。常ならざることのみが、常なるものである。
  一見したところ、日常の営みは、さまざまな枠のなかで、型どおりに行われている――とみえる。だが、そう見えること自体が、「日常性」の色メガネのなせるわざなのである。朝、目がさめる。顔を洗う。だが、そこに漠としてただよう「気分」は、その日その日で、微妙に異なっている。その気分は、それ以前の過去の一切を引きずる心身の「持続」と、そのとき目に入る周囲の物と人の姿と、その日あるいは将来に起こりうべき出来ごとのイメージによって、かげりを与えられ、いろどられる。しかもそれは、まわりの空気や風景がわずかに揺れるだけで、たちまち移ろってしまう。
  日常生活は、むしろ、一種の神秘――謎めいた、あいまいな、目にはさやかにみえぬものによって支えられている。平々凡々たる、退屈・陳腐とみえるもののすぐ裏側に、「無」の影がある。「世界観」といい「現実像」といっても、そこに映し出されているものは、「仮象」にほかならない。「客観的実在」といい「普遍的法則」というが、死んでしまえば、そのようなものは、なんの意味もない。いや、生きてみつめてはいても、視点が少しずれる、、、だけで、もう、まったく別の姿があらわれてしまうかもしれない。
  ひとりの人間にとって、、、、、世界とは、彼によって「生きられた世界」である。それは、ある微細な一点で「感じられた」世界である、一つのイメージにすぎない。このイメージは全身を通して受けとられる「知覚」の「うわずみ」のような、あやふやな姿・形である。仏教が、「しき」という字によって「もの」をあらわしたのは、意味深いことである。
  ひとがみるとき、生きるとき、彼は、みえない糸を引きずっている。その糸は、ときにわずらわしいほど強くからみつき、身動きできなくもするが、その実、それは意外に細くて、ふとした気まぐれで断ち切ることだって、できないわけではない。日常の生は、それが断ち切られないことによって支えられているが、この糸は、伸びたり縮んだりもする。坐しつつもなお、心は遠く羽ばたき、恋人のもとへと天駆あまかける。ブレイクは、「一粒の砂に世界を見つ、一輪の花に天を見る」とうたう。使い慣れた一つのうつわにも、さまざまな歴史と、人びとの哀歌、つぶやきとためいきが、もれきこえる。視線は、物の背後へとつらぬき、あるいは「行間ぎょうかんの文字」を読む。これらはすべて、「想像力」とあいまいに呼ばれるしかない心のはたらきによっている。

「どうですか、ビンビンに感じるでしょう、この、何て言うか、曰く言い難い、威力、圧力、畏怖、勢い。なんか、何を言ってるんだか全然分からないけどこちらを圧倒してくるこの雰囲気。なんだか凄い! 何について何を言ってるんだか分からないんだけど、でも、なんだか、「「知覚」」の、「「うわずみ」」とか! 「視線」は「「行間の文字」」を読むんだけど、その割りには「みえない糸」を「引きずっている」し。そっちは比喩でも何でもなく、うぇっ、糸を引きずっているのかよ! ずるずるなのかよ! みたいな。とんでもねえな、とんでもねえことを語ろうとしているぞ、この人は……。というわけで、こう、続くのです。」

  いうまでもなく、なによりもまず芸術と哲学の歴史は、想像力によってつらぬかれている。とりわけ、ロマン派詩人のコールリッジが、カントの Einbildungskraft (構想力)説に学びつつ、「イマジネーション」に芸術創造の秘密を見出して以来、「創造的なるもの」 (l'imaginaire) をめぐるサルトル現象学にいたるまで、想像力は、意識の、したがって人間の存在そのものの謎へのカギともなり、またそれ自身が謎を秘めている。だがそれは、ときとして、「悟性」によって扼殺されるかにもみえる。
  日常生活は、さまざまな「枠」に制約された「型」をもっている。法律・慣習・風俗その他の「規範」は、いずれも人間生活のなんらかの必要から生まれたものであろうが、ひとりの個人からみれば、それらは、本人の合意なしにあらかじめつくられてしまっており、だいいち過去の産物にすぎない。だから、しばしば、個人の「欲求」と矛盾し、欲求を阻止し抑圧する。「型やぶり」をすれば、周囲のだれかという「他人」や「世間」という漠たる存在によって、「逸脱」の罪で罰せられる。これもまた苦痛をもたらす。「世間の白い目」に耐えることは、ラクではない。そこで、妥協としての「適応」がはかられる。日常生活の型も、一つの妥協という側面をもっている。

「コールリッジって、そうだったのかよ! 日常生活には「「枠」」に制約された「「型」」があるのかよ! でもね、じゃあその「「枠」」ってどういうものなのとか、「個人の「欲求」と矛盾する」「「規範」」ってのはなんなんですか、なんで引用符がついているんですか、どういう含みがあるんですか、と、思うと駄目で、多分これは引用ではなくて強調なんだと思う。だからおれたちは彼の語りから、こう、何て言うか、熱い、濃厚な、激しく流動するグルーヴ感を感じ取れればいいんだと思う。まあ「「イマジネーション」」とかはコールリッジの文脈での「イマジネーション」なんだと思うけど、実は違うかも知れないし! ……で、こう続くのです。もうわけが分からないながらも、勢いだけは極まってゆく。断定口調が心地よい。」

  もっとも、そこには矛盾があって、なんだかんだと愚痴をいいながらも、ひそかに、ある型に「はまり」こんで安定したい――という気持ちもはたらくのである。すべてを、その都度ごとに、白紙に立ち帰って考え、決めるとなると、これもつらい。それに、脳が異常に発達したこの「ヒト」は、不幸にもチエがあるばかりに、もともと、万事に不安定な動物なのであり、欲望も、天井知らずの「アノミック」(無規制的)なところがある。そこで、型によって限定をみずからに課することによって、「自由からの逃走」を試みる。心のすみのどこかで、「しばられたい」とか、「きめてほしい」と、思っているらしい。フロイトふうにいうと、これが「現実原則」ということになる。生の根源的エネルギーたる「リビドー」は、ほんらい、想像と生産の源泉なのだが、ある程度は抑圧しないと、そのアナーキーな放散・乱費によって、人間自身を破滅させてしまう――と彼は考えた。

「やっべえ、マジ痺れる。「矛盾」とか、多分前の段落の「矛盾」とは別の「矛盾」なんだろうな。いやでも本当は同じ「矛盾」かも知れないし! うっはー、ビリビリ来るわあ。もう前後の接続とかどうでもよくなってるんだろうなあ。こういう風に言われると、フロイトって、そういうこと言ってたんだあ(よく分からないけど)、でも多分「「現実原則」」とか、この言ってる人の捏造かも知れないよね! っていう感じもしてくるよね! いいなあ、この、何て言うか、あ? 俺に語らせたら凄いよ? 聞きたいの? あのフロイト君がサ、……てゆう感じ。楽しんで書いてるんだろうなあ。で、次がもう、圧巻でね!」

  だが、この現実原則にたいする「快楽原則」の葛藤は、たいへん深刻で、どこまでも果てることはない。デュルケムが自殺論で指摘したように、アノミックな欲求が自己の破滅に終わると知ってはいても、なにか、枠を「はみ出し」て、型から「はずれ」たいという気持ちは、なくならない。だから、それをあえてなしうる、あるいはそれへと追いやられる「破滅の悲劇」の主人公に、同情したり喝采を送ったり、「ほろびゆくものの美しさ」をみたりするわけである。人生は、シャカがいったように、「苦」の世界、つまり、「四苦八苦」の牢獄みたいなところがある。それに、仕事のつらさ・人間関係のわずらわしさ・世の中のいやらしさだけでなく、だいいち、「自分」という厄介な重荷を背負っている。なんの「因果」か、体質とか性格とかを引きずって歩かねばならない。これは、社会に責任を転嫁することができないから、いっそう呪わしい――とさえいえる。だから、「自分」と「人生」そのものからも、はずれたい、はみ出したいと、たえず願っているのである。ただし、このはみ出しかたにもいろいろあって、プラトンは「至高善美」なる理想界への「あこがれ」を「エロス」神に託して、人間を、地上と天井の間を羽ばたく「永遠の中間者」とした。「ポロス(充足)」神と「ペニア(欠如)」神の間に生まれたエロスは、「創造」と「向上」の象徴であり、また、その意味での「愛」の象徴ともなった。だが、「世紀末」のフロイトともなると、いささかペシミズムの影があって、「生の本能」としてのエロスに対して、「死の本能」としての「タナトス」が、人間の内部で葛藤し、生以前の闇黒の「無」の世界への回帰へと、いざなう――と説明する。これが、「ニルヴァーナ涅槃ねはん)願望」であり、彼は仏教にヒントを得たのであった。

「いやあ……。なんと「奔放」なアイデアの「洪水」……。この人物の「奔放流」は明るき天から降り下ったあたかも「天啓」のようなものだろう。これが世に言う詩情原則であって、心の「うち」からあふれ出てくる「滝」を止めることは人間としての「尊厳」に抵触する。彼にとって「怒り」を支配し統御するものは社会との「結節点」を探して深淵を彷徨する或る種の「アマガエル」なのだ。アマガエルは「天」と「雨」に通じ、曇天から差す一条の「陽光」を「浴び」て「ああこれぞ我の求めし逸と脱とであった」と言うのである。してみればやはり人間というのは一個の「アマガエル」であり、それは彼の中に見事に結実している。跳び越えたい、と雲間を睨んだ一握の蓮花から、彼というアマガエルは絶叫するのである。」
「何かそれっぽく文体を真似て書いてみたけどなんかそんな感じじゃない!? いいわあ、このグルーヴ感。久し振りに見たパンクで、絶叫調の文章だ。このときの著者は計算によると五十四歳(初版の発表時は四十一歳なのかな)。いいなあ。こういう、なんていうんですか、瑞々しい感性を持って筆圧強くする五十四歳。全然悪くない。で、出典だけど、これもまた、あれで、仲村祥一(編)『新版 社会学を学ぶ人のために』isbn:4790703320 所収(第九章)、小関三平「日常のなかの想像力 ――生活・芸術・社会・一九七五年――」pp.231-52 の、第一節「日常性と「遊び」の脱自」の、全部ではなくて、pp.231-4 なのね。何か色々と間違えてるような気がしないでもないけど、ビリビリ来るからそれで良し。ということにしよう。寝る前にこの第一節を読んでね、ちょっと興奮してしまって……、紹介したくなってしまいました。小関三平、覚えておこう。」