大正ミステリーについて

  • 大正時代を舞台とした推理ものを、アイデアとして思い付いたが、もうあったんだって。しょうがないね。
  • でも、そういうことを考えてみることは多分大事なことだ。おれ自身は、このコンセプト(アイデア)で作られたものが、それだけで面白いものになるとは思わなかった。しかし、こういうことを思い付くことは、多分大事なことだ。
  • おれ自身は面白いとは思わないが、大正ミステリーというものを作るときに、気をつけるべきことを考えていた。多分、これを考えることが大事なのだ。大正時代を舞台とした推理ものには、良いところがある。まず、現代よりもテクノロジーの程度が低いから、トリックに使用できるものがより少ない。だから、鑑賞者は、その作品内の事件を推理する際、難易度が低いと思うだろう。しかし、実はそうではないのだ。思うに、一般常識としての大正時代と、時代考証を経て知られる大正時代とには、大きな隔たりがある。我々は、過去よりも現在のことの方を、より多く知っている。現代を舞台とした推理もののトリックを見抜けない鑑賞者は、過去を舞台とした推理もののトリックにより多く困るだろう。しかし、過去の社会の方がより単純だろうと多くの人はきっと思っている。そこが落とし穴になる。過去の方が単純だ、というのはそうかも知れない。だが、我々は、案外、その単純な過去のことを知らない。と思うのだ。
  • こういうことを考えることで、大正ミステリーというものをどのように展開したらよいかを考えることが出来る。大正ミステリーは、単に、大正時代への憧憬だけを売りとするものではない。過去についての事実が過去に関する知識を凌駕しているということを鑑賞者に伝えることも、売りとなる。単純な舞台設定の上で生じたミステリーが、案外解けない。知らなかった過去の装置によって、そのミステリーは説明される。成程、大正時代には、こういうものが有ったのか。知らなかった。この驚きが、大正ミステリーの売りの一つになる。
  • だが、これを売りの一つとするならば、気をつけねばならないことが一つある。それをおれは考えていた。それは即ち、ビジュアル的な表現を増やさねばならないということだ。というのも、言葉による説明だけでは、そのミステリーを構成しているものを、ありありと鑑賞者に伝えることが出来ないかも知れないからだ。一体、外套とはどういうものか。では瓦斯灯とは? まあ、僕が直ぐに思い付く大正時代らしいアイテムとはそんなものだが、これらの実際の形を、ありありと想像できる人はどれくらいいるのだろうか。ましてや、ミステリーを説明してしまうキー・アイテムのことを、現代人はどれくらいよく知っているのだろうか。それを名前で与えられるだけで、それが確かにミステリーを説明していることを納得できるだろうか。というわけで、作品が、そのアイテムをちゃんと示してあげないとならない。そのために、ビジュアルを使用すべきだ、というのである。勿論、言葉による説明も不可欠であろうが。
    • 何も、ビジュアル的な表現でなくとも、アイテムをちゃんと説明できるのならば他の方法でも良いだろう。けれど、僕にはビジュアル的な表現手法しか思い付かなかった。
  • 多分、こういうことを考えることは大事なことだ。