• 某ルートから。

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  • 文化作品について。
  • それにしてもどうして文化作品で金を取ろうなどとするのだろうか。よい文化作品を前にして思わず金を払いたくなるのは自然な心性であるとしても、それを、払うべきものとしたのはなぜか。なぜ、文化作品には「それなくしては引き替えにされない」ような額が決められているのか。
  • 作者を延命させるためだ、という説明は尤もらしいように思われる。作者に金銭を与えて延命させ、また彼女が作品を作ることを期待するというわけだ。また、そもそも作品に対価が付くというのならば、人は作家になることを志すかも知れない。けれど、それだけでは作品が有料「でなければならない」ことの説明にはなるまい。有料であった方が何かと都合がよいというだけの話ではないか。大体、人は強欲なのであって、作品を尊敬はしても作家を尊敬することなど、多くはないであろう。産物だけを人は称揚して、それを作った人はもう用済みとして扱う、というのが、より有りそうなことと思う。
  • 「作家というのは専門家でなければならないんだ。音楽家になるためには専門的な教育が必要だ。そしてそれには金銭が掛かるのだ。だから将来の音楽家を期待するのなら、音楽界に金銭を与えねばならない。作品が有料でなければならないのはそういう理由からだ」。成程。それはそうかも知れない。人々が、専門的な教育を受けた作家の作品を期待しているのなら、そうだろう。しかし、専門的な教育を受けたことのない作家の作品でも、人々がそれで満足するという場合にはどうだろうか。非専門的な作家でも、人々を十分に感動させられるというなら、人々はもう専門家のために金を払う必要はないだろう。幸か不幸か、現代はそういう時代になっているではないか。情報技術の発達を背景に、我々は専門的教育を受けることなしに歌い、作曲し、作品を流通させている。もしも人々がああそれで十分なのだ、と言うとしたら、音楽界など無くても構わないし、勿論音楽界に金を払う理由もない。
  • 「いや、専門家は必要なのだ。その非専門家達は、どうして専門的な教育を受けることなく「十分な」作品を作れるのか。それは、専門家がその背景となる理論を作り上げたからだ。専門的な作家達が常に先進的な試みを繰り返してきたからだ。本当に奇抜なことは、専門的な教育を受け、全般的な知識を身に付けた専門家にしか思い付けない。試せない。反省できない。実験的な作品は、非専門家ではなく専門家が実践するからこそ、考慮され得るのだ。そしてそれ故に、非専門家にとって利用可能なものとして流布されうるのだ」。成程。それはそうかも知れない。非専門家は、専門家が心胆込めて錬磨した成果を、万倍に薄めて利用しているだけかも知れない。たとえそれで非専門家である大半の人々には十分であっても、専門家がいなければ、新しいものは枯渇してしまうかも知れない。そうならない為に、専門家が必要なのかも知れない。それの為に、人々は専門家に金を払うべきかも知れない。
  • それでは、専門家が、非専門家達にとっての馬車馬であってどうしていけないのか。圧倒的大半の非専門家にとって利用する価値のあるものを生み出すための知的奴隷でもいいではないか。非専門家は先進的で、時に全く新しいものを生み出せるから、それだけで尊敬に足るかも知れない。しかし、現状に於いて彼らが受けている尊敬は、それに比べて過剰であるように思われる。文化作品の鑑賞活動は、圧倒的に非専門家が行っている。鑑賞者は非専門家である。どうして彼らは専門家の作品を、金を払ってまで鑑賞しなければならないのか。非専門家の作品を、無料で鑑賞して、それで十分だと言うのなら、専門家の出る幕は「先進的実験者」としての役割以外にないのではないか。