• どーしてマレフィスのカテゴリーなのか。まあ説明を付けようと思えば付けることも出来ようが、ともあれ久し振りにおれもブログに少々残しておこうと思えるトピックが見つかったのだからいいじゃないか。この本について良くないことを含むものを書こうとしているからマレフィスなのだ。マレフィスと言っておけば何を言っても許されると思っているのだ。ともあれ、マレフィスとしておけば口汚いことを言っても自分を許せるのだ。
  • とは言え、そう沢山書いている時間もないから、書く気になった時にだけ、書いておこうと思った分だけ書くことにしよう。
  • とりあえず、この本をちらちら読んだが、文字が大きく、文字間も大きいので対象とする読者の層がどんなもんか、ここからも分かるわい、などと言いたくなる。
  • いや、この本を買って良かったと思っているんですよ。基本的には。でも、ちょっと気に入らない点があるものだから。
  • まず言いたいのは、どうしてこうも、表現に関する感覚とか、直観とか、印象とかと言われるはずのものにどうしてこうも、自信が持てるのだろうか。馬鹿なんじゃないか。そう思えば我慢が出来る。馬鹿なのだ。この書き手は。自分の感覚がただしいのだと、信じることが出来る馬鹿なのだ。きっと、俳句のことばかり考えているから、そのように感じない人が居るということを忘れてしまったのだ。これは入門書なのだから、もう少し、こう書かれたらこう感じるのが一般的ですよ? と、設定を語るように語ったらよいだろう。俳句に入門したい人ならば、喜んで俳句の世界で通用している設定を受け入れるだろう。しかし、それは飽くまでも設定に過ぎず、その設定を受け入れるか否かの自由が、読み手にはあるのだ。
  • などと、あたかも自分が俳句には興味が無いかのような口振りで書いてみたが、それであったらどうして俳句に関する本など買ったのだろうね? まったく、それは興味深いことだ。無論、興味があったから買ったのだ。そして、俳句に興味があるのなら、俳句の設定を受け入れたらいいじゃないか。うむ。そうかも知れない。でもちょっと違うかな。まあ、まず今は俳句という活動の領域で通用しているルールに目を通し、俳句という活動を理解しようとしているのだ。理解した上で、その活動がなおも面白そうだと思われたら、実際にそのルールを受け入れてみよう。だが、それまでは、そのルールを受け入れる必要など、おれにはこれっぽっちもない。もしかしたら、実際にルールを受け入れてみなければ俳句のほんとうの面白さはりかいできない、等と言いたくなる人もいるかも知れない。ああ、そういう病理的な活動も、この世にはあるかも知れませんね。そんな活動は、ファンを得にくいでしょうね。俳句はそれなりに長い歴史があるのだから、それなりにシンパシーを持つ人が居たのでしょう。ならば、俳句は、あなたが思っているよりも初心者にフレンドリーだと予想したいのですけれど。
  • ちなみに、この本の中で言われているものの感じ方には、かなり共感が行く。「「春の月」は和歌の時代から詠まれてきました。滴るばかりのみずみずしさが、豊かな情趣となまめかしさまで感じさせる、それが季語の本意です。」とこの本は言う (p.192)。ああ、同感だね。僕も「春の月」という言葉には、みずみずしさを感じる。ああ、感じている。そりゃてめー、日本文化にこれだけ触れてたらそういう風に感じるようになるんちゃう? しかし、その言い方が気に入らない。「春の月」と言えば、みずみずしさを感じるものではありませんか? もしそう感じないんだったら俳句って多分つまらないから君はこの本を閉じて俳句のことを忘れたらいいよ? とでも言った方がいいだろう。なぜそんなに自信が持てるのだろう。まさに、お前の言い方が気に入らないという状態だ。
  • 実際、おれは、俳句で使われる表現に対し、この本で言われているような感じ方で感じることが出来る。だから、おれは、この本に従って俳句に入門することが出来る。しかし、感じ方を自明視するような本を、受け入れることは出来ない。
  • おれは一体何を言っているのだろう。一体、何に怒っているのだろう。実に興味深い。また考えよう。

He raged at the world, at his family, at his life. But mostly he just raged.

  • (9,11) ははあ、しかし、なるほど。これはあれだ。Notion Thief (http://magiccards.info/dgm/en/88.html) みたいなものだ。歳時記のように、ものの感じ方というものの典範のようなものを忌避しているのは、それに慣れ親しむことで、自分のものの感じ方がねじ曲げられるように思うからなのだ。きっとな。きっと、俳句に慣れ親しんでしまった人は、それぞれの表現の喚起する感覚が、最早俳句用に調律されてしまっていて、それぞれを個別化して感得することは出来るのであろうが、却って、それ以外の感じ方が出来なくなっているのであろう。おお、恐ろしい。それは僕にとっては恐ろしいことだ。彼らは、恐ろしくなかったのだろうか。
  • 別に、そういう風に語毎に、結び付けられる感覚が固定したって、独創性を保つことは出来る。この本はそれを示唆している。要するに、語の組み合わせというレベルがあるのだ。俳句は、そのレベルを利用して、独創性の余地を確保しているのであろう。まあそれはいいよ。しかし、僕は、俳句に親しんで、自分の感じ方が強制されるのが堪らなく怖いね。ああ、歳時記などを、感情移入して読んではいけないな。それは命取りになる。ああ、だから歳時記というものは単に俳句の世界の中のお約束事に過ぎない、と、貶めたいのだ。実際この本の書き手はそのように書いている。まあその辺は初心者フレンドリーだけどさ。ああ、しかし、古代人のものの感じ方(と思い込んでいるもの)なんかを、どうして内面化したいなんて思うんだろう。自らも長々と続く伝統に加わりたい、とでも思うのだろうか。それは気持ちのいいことなのだろうか。
  • 或いは、自分の感じ方がこうも他の人と同じだなんて、非道く薄気味悪いね。だから、おれはきっと、詩の情感を説明する全ての記述に、自分には納得のいかない説明をすることを期待しているのだ。本心では。それはそれで病理的なことかも知れないな。