• いや、ほんと、何か調子が上がらないんですよ。-14,53

★20,59-

  • 覚悟のススメ三巻と、苺ましまろ五巻を買って読む。山口貴由の狂いっぷりとそれをちゃんと掲載する(掲載したと思われる)チャンピオン誌の投げっぷりに感心する。これを機に、ギャグとシリアスとについて少々考えるが、結局そんなものは基準の上をさまよっているに過ぎないと思われる。ばらスィーの方は、その遅筆っぷりが悔やまれるが、まあその分細かいことを書いているのだからよいのだろう。出版されれば買うのだし。(これは推測だが)減頁と休載が、許されるのは月刊誌だからなのだろうか。おそらく週刊少年ジャンプでは許されないのだろう。苺ましまろは、こうした作品には珍しくたまに読解的に難しいことがある。それだから手元に残り、本棚に送られるのが遅れる。
  • 最近は気候が変化しやすく、過ごしにくい。そうは言っても暑い日が続くよりはよいのだろうけれど。
  • 何かどこかに行ってみたい気もするが、そのために割ける時間はない。
  • お疲れちゃん。-21,21

★21,36-

  • 「気炎」を広辞苑で調べてみよう。「燃え上がるような、盛んな意気。気勢。」とある*1。うまい蕎麦かうまい饂飩かうまい素麺が食いたい。「覇気」を引いてみよう。「覇者になろうという気性。積極的に立ち向かおうとする意気。かちき。」とある*2。近くの百円均一の店でブックエンドを買ったが、軽く小さいため、もののようをなさないかも知れない。ちゃんとしたものを買ってこようか。
  • それにしても八房龍之助さんのものが読みたいが、しょうがないからあの辺の雑誌を何とかして手に入れてみようか。それにしてもあの人程のものをかく人が少ない。これは当然好悪を問題に過ぎないとしても、少ない。ジェニーについて言っている箇所が判断力にあったが、読んでみようか。もうね。テオイ*3。-21,55

★23,11-

  • 批評という言葉は色々と根が深いのでそれには触れないようにしたいのだけれど、それにしても作品というものを価値付けしてよいのは何故なのだろうか。特に、作品をけなしてよいのは何故なのだろうか。それを作った人がかわいそうではないか、ねえ。と何人かに聞いてみたことがあるのだけれど(明らかに論争が始まりそうな人には聞いていない。僕本当は論争が嫌いなんです)、それはその作品に対してもうお金を払ってしまったから、払った金に見合わないときにはそれをけなしてもいいんだよ、というような返答をもらった。ふーむ、それではあれか、自分が払った金銭以上の価値をその作品が持っていた場合にはけなす代わりに褒め、金を返せと叫ぶ代わりにお金を返そうかなあと呟いてみるわけだな。さてそれでは、金を払ったわけでもない垂れ流しになっている(と言ってはいけないのかな、それではじゃあ無料の)作品に関してはどうしたらよいのだろう。ただで鑑賞させてもらっているのだからそもそもけなしたりすることはいけないことになるのか。それでは、作品に関して価値付けを行ってよいのは対価を支払っている者だけなのか。さてそのときにしてよいのは、もっぱらその支払った金銭と比べての価値付けであるのか。
  • これはつまらない、というのはその個人が感じた個人的な感情であるから、そのような言葉を聞いても作者は心を痛める必要はないのであるか。
  • なんだか、作品の「批評」というものを行うときには作者というものに触れることはもはや常識外れのことらしい。まあ別にそれでよいのだけれど、(批評ではなくて)価値付けを行う際には、上に従えば作者は金銭の授受という点では関わっている。その作者にどれだけ多くの金銭を支払ったかによって、その金銭の多寡に見合うか見合わぬかという観点から、その作品を褒め、けなしてよいわけだ。ふーむ。
  • それとも評価者は、金銭ではない何かを支払っているのかなあ。例えば、「ははあ、君はこの作品がつまらないと思うわけだ。君は、この作品を面白いとは思えないような、貧相な感受性の持ち主というわけだ」などと感受性の貴賤を問われる危険性、とか。或いは貴賤でなくとも「ははあ、君はこの作品をそういう風に採っちゃうわけだ」というように、その評価者の性格を決めてしまう危険性とか。これは食べ物の場合にはよくありそうなことだ。「君はあの高級料理が好きだと言うけれど、でも以前、あの低級料理が好きだと言っていたよね。そんなことを言ってしまうような低級な舌の持ち主の評価は、全然あてにならないな。どうせ値段が高いから美味しいと思っているに過ぎないんでしょ?」などと。或いは、「あ、そう。君はあの料理が好きなんだ。君のことがよく分かったよ。ごめんな、僕はそういう人とは付き合わないことにしているんだ」などと。いやあ勿論、そうした性格の故に好かれる、ということもあろうけれど。
  • それとも、それでは作品というものは、始めから、自由に評価されてよいようなものとして提示されているのだろうか。「君、作品をそういう風に出してくる、って事は、もう受け手が好き勝手に言っていいってことだよね」などというように。これが一番ありそうなことだな。「他人にとやかく言われたくなければ始めからおおっぴらにしなければいいのに」というわけだ(いや、それでも僕なんかはけなしたらかわいそうかな、なんてたまに思ってしまうのですけれどね)。そこではその作者がその作品をおおっぴらにしたかったからしたのだ、ということが、価値付けを許す根拠となっている。ふーむ。それでは、飲み屋の椅子板の裏から出てきた冊子に書いてあった文字列は、どうしたらよいのだろう。それは価値付けをしてよいのだろうか。それを作った者がどのようなつもりでそれを生じさせたかが分からないわけだけれども。ひょっとしたら誰にも見られたくはなかった日記代わりの文字列かも知れず、でももしかしたら対面していた編集者に渡すはずだったんだが何かの拍子に板の裏に張り付いてしまってその作家が無くしてしまったと思いこみ・結局編集者に渡すことが出来ないで大いに悔やんだものかも知れない。さてこうした場合にはその冊子は、価値付けをしてよいのだろうか。少なくとも、それはおおっぴらに「現代エンタの最高傑作ここに!」みたいなようにして作品、、としては提示されていない。
  • さて、この椅子板から出てきた冊子が売り物にされた場合にはどうだろうか。その発見者は実はどこかの敏腕編集企画者だったわけだ。読者はそれを金銭と引き替えに手に入れるわけだが、さて、その場合読者はその金銭を誰に渡しているのだろうか。普通の作品の場合には、その金銭は作家のために支払ったものだと、上ではそのように理解していた。いやいや、それでは上の場合も今回の場合も、出版者に金銭を払っているのだとすれば筋が通るのだね。ふーむ。それでは、なにがしかのものを「作品」にしている機構・装置があるらしい。それはなにだろうか。一つには作家のそうした・明示された意志であり、もう一つには金銭と引き替えにその何かを受け手に渡す経済上の機構だ。で、そうした機構がその作品の価値付けを許しているわけだ。そして或いは、或る種の危険性を覚悟する場合には、価値付けを行ってよい。
  • 価値付けを行ってしまうことと、価値付けを表明することを分けた方がいいんだろうなあ。まあいいや。
  • それにしてもそうしてみると、価値付けを伴っていない(と見える・客観的な)「批評」というものはなんと危うさのないことか。支払った金銭の多寡に関わりなく、その作品に関して物事を言うことが出来る。
  • そう言えば虎の門という番組で映画監督の井筒何とかという人が見た映画に関して何事かを言っていたが、その際に「これに1500円の価値は無いよ」と言っていたと思う。なるほどなるほど。そういうことなのか。あの人にとってそれほどに1500円という金銭はそのような価値の多寡/高であるわけだ。1500円を払えば、ああしたことを言っていいわけだ。何しろ、そのお金をちゃんと自腹で払っているからね。ちゃんと考えてあるなあ。ああ、もう少し言えば、あと、そうしたものとして評価をすることに伴う自身の性格の決定性とかね。それであるから、そのように評価することによってどのように言われても平気で、それでよいのかな。-0,11

*1:第五版による。

*2:同上。

*3:んー。