抽象的麻雀

  • 試しに、次のようなことを考えてみよう。何か新しいことが分かるかも知れない。というわけで今から書くことで考えるので、必ずしも読みやすい文章にはならない気がするがまあその辺はなんだ、ちょっと僕と一緒に考えてみてくれよ。
  • さて。僕が以前所属していたサークルで、麻雀をすることがあった。けれど、僕は相対的に弱かったので気分が塞ぎがちだった。ので、次のように言ったのだ。

「んん〜〜。やー、なんかですよねー、おれが切った牌に応じて、不要になるような牌が次の自模牌と入れ替わってるような気がするんですよねー」

  • すると、対局していた先輩の一人が次のように言った。

「んー、そういう風に考えるようになったら麻雀やめた方が賢明かな」

  • さて。さてさて。
  • 核心に迫ることを言ってしまうと、おれは、どうも、「抽象的」? な麻雀を思い描いているのではないだろうか。我々は実際にプラスチックか何かで出来た麻雀牌を目の前に用意して、対局しているのにも拘わらず、おれには、そういうことが起こっていても不思議ではないと本気で思えていた。コンピューター麻雀につきまとううさんくささを産み出しているような、まさにそのような性質のものとして、麻雀を考えていたのだろう。というか、きっと今でもそう考えている。
  • さて、けれど、とうだうだと考えてみよう。たまにはそういうのもいいでしょう。
  • どういうことなのか。例えばまあ右から三番目の牌を切るか、四番目の牌を切るかで、迷ったとしよう。勿論、どちらを切るかによってそのごの「有効牌」というものは異なってくる。右から三番目の牌を切った牌姿に対する有効牌と、右から四番目の牌を切った牌姿に対する有効牌は、異なっているとしよう。そして、普通、そうした「有効牌」の数が多い方が、よい「切り筋」とでも呼ばれるものになるわけだ。だから、その辺を計算して、普通打牌する。そしてより幸福になれる見込みの多い方を選択し・賭けるのだから、そしてもしもその選択が自分にとって合理的であるのなら、何を次に引いても後悔はしないはずだ。なぜならば有効牌を引かないという場合も想定して、それでもこちらの切り筋の方が理に適っていると判断してその切り筋を行うのだから。必ずしも有効牌を引くとは限らないということは百も承知、けれどこちらの方がより有効牌を引きやすいと判断するから、そのようにする。
  • けれどこれがコンピューター麻雀の場合は、ちょっと納得がいかないという人がいる。つまり要点は、もしもコンピューターの方が悪意的に設計されていた場合、一方的に自分が損するような引きしかしないかも知れない、ということにある。自分が次に何を引くかが分からない、という状況は、実際に牌を積んで対局する場合と変わらないが、コンピューター麻雀の場合は「次の君の自模は、はい、これね」という具合にコンピューターがかってに僕の自模を決める。そこに、不信の種があるとされる。「結局あれだろ? コンピューター麻雀はコンピューターが勝つように仕組まれてんだろ?」というわけだ。なにしろ、コンピューターは対戦者の手牌(自模牌)に支配権を持っているから。
  • さて、さてさて。そこでおれの念頭には、あのときそのような状況があったのだ。余りにも期待を裏切られすぎたので次のおれの自模牌は何ものかによってすり替えられているに違いない。おれの切り筋に対応して、有効牌にならないようにおれの次の自模牌が書き換えられているのだ。――おれが言った不平はそういうことを意味していた。上のように言った先輩からすれば、と言うか恐らく大多数の人にとっては、おれの思想は奇異なものに見えただろう。何しろ牌は目の前にあって、誰もすり替えたりしない。と言うかすり替えたにしてもそれはちゃんとおれの切り筋が分かっていないとならない。おれの自模牌を全て非・有効牌にすることなど、ちょっと学生麻雀のレベルじゃない。いやいや――、もっと根本的に、牌に掘られた模様は書き換えられない。……というわけだ。
  • どういう風に考えたらいいのだろうか。たしかに牌は目の前に在るが、牌の模様は書き換えられるかも知れない。そんなことがないと、誰に言い切れる。と、僕なんかは考えちゃいますね。何しろ未来に反則はないから。どのようなことがこれから起ころうとも、だからこれまでの常識と違うからと言って、この事実はこれまでの常識と違うから認められない、というのは通らないだろう。何しろそれが事実なのだから。常識や法則で事実は書き抱えることは出来ない。というわけなので、これからの僕の自模牌は、悪意を持ったデーモンに書き換えられたせいで非有効牌ばかりかも知れない。勿論そうではないかも知れない。そこんとこがまだ確実には分からないから、麻雀をする余地がある。これからの自模牌が問答無用で非有効牌ばかりだと分かってしまったとしたら、当然だが麻雀をしないだろう。そんなマゾ打ちは僕はしない。で、まあ代わりにこれからの自模牌の全てが有効牌だと分かったとしたら、まあ対局はするかも知れないがそれは最早麻雀というゲームではない。さて、だから、僕はデーモンによって自模牌が非有効牌に僕が牌を切るたびに書き変えられているかも知れない、という可能性をちゃんと肝に銘じて、対局することになるだろう。
  • さてここに至って、上のように言った先輩の立場は攻撃されている。何しろ未来に反則はないとするのなら、デーモンに書き換えられているかも知れないのだから。けれど同時に、僕は、厳然と目の前に在る牌山の一部が、人知れず書き換えられているという可能性を許してしまっている。ここがよく分からない。どう考えればいいのだろう。
  • 幾ら何でも僕だって、目の前にずうっと置いてある「それ」が、僕が見ているあいだにぐにゃりと変形するとは思っていない。というか変形したら気付くでしょう。というか、だから、僕は今、模様が掘ってある面を下にして伏せられている牌の、まさに下を向けられているがために僕には不可知であるような模様が、変形するかも知れないのだと言っていることになる。もの凄い想像だな、だってあれだろ、インディアンポーカーのようにして自分にはその模様が見えないように額に牌の背中をつけていたとしたら、僕には見えないからという理由で皆には見えているはずの模様がぐにゃぐにゃと変形するかも知れない、と言っているのだろう? だって、牌山として台に伏せられている牌と、それがまさに接しているような台の一部が実は刳り抜かれており、誰かがその牌の模様をカメラででも逐一見ているかも知れないのだから。さあ、果たして一体どうなっているのだ。おれは、やはり目の前に在るものの定性(って言うんですか? 安定性って言えばいいんですか?)ぐらいは、認めるべきなのだろうか。そうすると、やはりおれが何を自模るかということはおれが何を切るかに関わりなく、決まっているのだと認めるべきなのだろうか。
  • さあ、もうおれには良く分からない。これ以上は決定論の文献を見る必要があるだろう。やれやれ、厄介な問題が麻雀に宿っていたものだ。