困っています。困りました

  • 買った、みなぎ得一の単行本は通常版でした。しかし他に限定版があり、欲しい、と思う。けれど手に入りにくい。Amazon では、競取りと呼ばれる人たちと思しき方々によるしかなさそうである。と。個人からは買いたくない。何も、ものの状態に信頼が置けないというのではない。おれは本屋から買いたいのだ。正式の手順を踏んで入手したいのだ。なんだろう、この窮屈な位置は。なんでこんなことになっているのだ。なんで、わざわざ読者を、おれを困らせるような仕方で限定版なんか出すんだ……。
  • 限定版、ということでフィギュアが付いてくる、というのなら、買いたいとは思わないのだ。けれど、書き下ろしの漫画が付いてくるというのだから、欲しくなる。実際、フィギュアが付いてくるような限定版をおれは避け、書き下ろしが付いてくるという限定版を、買うことがある。灼眼のシャナの漫画版の二巻は、そういう理由で買ったのだった。
  • 何としてでも手に入れる、という選択肢はある。大きな本屋に行けば、きっと限定版が手に入るだろう。そりゃあそうだ。ここは天下の名古屋なんだぎゃあ。ああいかんそんなことを言っていると海老フライを口に詰められてしまう。それは怖いことだ。違う。そんな楽しい話じゃないんだ。
  • けれどもう一つの選択肢というものもあって、「正典」に関する議論で、自分には限定版など必要ではないのだということを正当化することだ。所詮、限定版は限定版であり、決して「流通版」にはなり得ない。だから、限定版でその作品を知っていることはただの邪道であり、そのことではその作品を知っていることにはならない。作品は、流通版としての正典によって同一性が固定されるのだ。そのように論じることも出来る。実際、そのことに触れている先行研究もある。だから、限定版を持っておらず通常版しか持っていないおれは、実は何も困っていないのだ、と論じるのだ。これが成功すれば、おれは救われるだろう。
  • ここで選ぶべき手は、この二つを同時に試みることだ。第一に、まず限定版が入手できれば何の問題もない。というのも私は既に通常版を持っているから。そしてこれが中々うまく行かなくとも、正典に関する議論が成功しているあいだは、心安らかに過ごすことが出来る。さあ、おれはそうすべきではないか。