作品とテクストについて

  • いやあその、こういうことを紫本でやるかどうかということは、結構僕にとっては難しいことで、他にもやりようがあると思うのだけれど、まあね、たまにはね、いいじゃない? っていうことなのでちょっとだけやってみましょう。
  • 行為が作品なら、そこに登場人物などいるのか?

 これについては、たとえテクストが作品であったとしても、文字列に登場人物などいないですから、登場人物はテクスト理解のなかに登場するのだ、と考えるべきだと思います。つまり、「この文字列は“エマ・ウッドハウスは、美人でかしこくて金持ちである”という命題を意味するのだな」などと理解するわけです。この命題が風刺として提出されているのかどうか、エマは何を象徴する人物であるのかなど、作品の解釈にうつるのはこのあとですね。

  • 本を読んでも作品を読んだことにならないのでは?

 作品は行為だとしても、作品を受容するにはauthorの制作行為の全体を監視する必要があるとは、Currieも言わないはずです。おそらく、本を読むときには、その読者はテクストだけでなく、それの制作行為についての知識をも、自らが持ち合わせているぶんだけ*1“読んで”(つまり、想起して)いるのだ、というようにCurrieは答えるでしょう。ですから、我々は本(本はまあテクストですよね)を読むことで、やはり作品を読んだことになるわけです。

  • 率直に言って、id:kugyo さんの理解はたしかに筋は通っているのだけれども、結局そのバージョンの Currie の見解も維持し続けるには足りない、と思います。以下ではそのことについて、 Currie の見解や、そこから言えることを確認しながら、書いてみます。
  • 私は、作品というものをテクスト制作の行為と同一視することは、作品を理解するということを難しくさせてしまっていると思う。
  • まず、Currie の提案に於いては、テクスト制作の行為は、その結果として作られるテクストの添え物なのではなく、作品であって、そこで作られたテクストを「その作品のテクスト」として有している。(例えば、本屋に並んでいる『ゼロの使い魔』という本の中に書かれているテクストは、ヤマグチノボルという人がある期間に為したテクスト制作の行為の結果である。そして、『ゼロの使い魔』という作品のテクストはどれかと言われれば、それは、『ゼロの使い魔』という本の中のここからここまでのテクストだ、ということになる。)
  • さて、我々はその作品にどのような登場人物が登場するかということを知るために、その作品のテクストを読むだろう。だがテクストは勿論ただの文字列なので、登場人物が登場するのは、id:kugyo の言うように「テクスト理解のなかに」である。
    • ここでは、当該の作品を理解するためにその作品のテクストを頼っている。だが、これは許される。というのも、Currie の路線ではたしかに作品は一つの行為なのだが、「その行為を理解すること」の一部が「その行為の結果物を理解すること」であっても、まあいいだろうと思うからだ。
    • そして、作品はテクスト制作の行為なので、テクストを持っていない作品というものはない(結果としてのテクストがないテクスト制作の行為は、失敗している。のでその行為は作品として成立していないと言えばいいだろう)。というわけなので、作品は必ずテクストを有するから、その作品に登場する登場人物がどのような人物たちなのかが知りたければテクストに頼ればいい、という提案はよいだろう。
  • だから、「作品の中に登場する人物をその作品の登場人物と言う」という言い方は比喩であって、「作品の登場人物とは、その作品のテクストを読解するとき、知られる人物たちである」ということになる。飽くまでも、人物たちは、作品の、テクストの、読解の結果知られるのであって、人物たちにアクセスするためには、テクストにアプローチしなければならない。
  • しかし、だからと言って、テクスト制作の行為は、作品の解釈に於いてテクストの添え物になっているのではない。作品の持つ性質には、その作品のテクストだけでは決定できないようなものがある(風刺性とかね)。そういうものを決定するためには、そのテクストの制作の行為をよく知らなければならない。その制作行為が為された歴史的背景や、その時代のその言語の文法などが分かれば、また作品の有する性質の内に理解できるものが増えることになる。
  • さて、私が問題にしたいのはこの点であるid:kugyo も懸念を表明しているが(「持ち合わせた背景知識の多い読者のほうが正しい読みに近づくと、暗に前提されているかも」)、その制作行為について多くのことを知っている方がよりより読み手になれる、ということは、問題を孕んだ帰結だろう。普通、一つのテクスト制作行為の全てを知り尽くしているということがない以上、その作品を全て理解し尽くすことが出来ないことになる。
  • そこで私は、Currie のこうした路線を引き継ぎつつ、手直しを加えてみたい。
  • まず、作品はテクスト制作の行為であり、その作品を解釈することはその制作行為を解釈することであり、その際には当然その制作行為の背景をより多く知っている方がよい、ということはそのまま認めることにしよう。
  • 但し、そこで、テクストのみによって知られること(作品の一部)を解釈や評価の主な対象として、それ以外のことについては余り争わないようにする、というのはどうだろうか。
    • その作品のテクストはよく流通しているが、それ以外の、その作品(制作行為)についての情報は余り流通していない、ということが専らではないだろうか。
    • そしてこの流通に関する状況が、テクストを作品と同一視したいというテクスト主義の動機を生むのではないだろうか。
  • 勿論、そのテクストの制作行為について或る事を知っているということが、大きな意義を持つこともあるだろう(例えば Currie の採り上げたような、全く同じテクストを生み出した二つの行為など。この場合では行為の差異によってしか作品を二つと数えることが出来ない)。しかし、制作されたテクストが異なる場合、そこで為されている行為も必ず異なるので、テクストから知られること(作品の一部)を主な係争点としている場合には、作品を二つと数えるためにそのテクストの制作行為についての知識を持ち出す必要がない。
  • このように考えることは、テクスト主義者の抱える困難を回避しつつ、また Currie の勇み足をごまかしていると思うのだが、どうだろうか。
    • 「ごまかしている」というのは、ここでの私の提案が、単に「テクスト以外から知られることは、普通、問題にしないようにしましょう」と言っているに過ぎないからだ。テクスト以外の、テクスト制作の行為から知られることをより多く知っている方がその作品についてより多く知っている、ということは変わらない。ただ、係争点をテクストのみから知られる部分だけに絞ることで、読者・解釈者・評価者のあいだの知識の差を無視することが出来るだろうという提案である。そしてこれの可否は、現在の情報の流通の仕方に依存している。
    • 一つ具体例を挙げる。この度芥川賞を受賞したのは、中国人の作者の作品であるらしい。そして、あの有名な芥川賞の受賞者が中国人であるということは衝撃的なことなので(或いは他の理由によってでも構わない)、多くの人の知るところとなっている。こうした状況を鑑みれば、その作者の作品を、「中国人の作者によって書かれた」という、テクスト制作の行為に関する情報込みで理解し、評価することはここでの提案からしても適切なことである。id:syusei-sakagami が「移民文学とパラテクスト――『時が滲む朝』に思うこと - フランス乞食の道場破り」で言っているように(「作者が中国人であるという事実がメタレヴェルにおけるパラテクストとして読者に働きかけることで」――注は引用者が省略した)、「中国人の作者によって書かれた」ということは、多くの人に知られていることなのだから。そして、そのことを知らずにテクストを読むということなど、最早起こらないだろうから。

*1:ここが急所かもしれません。持ち合わせた背景知識の多い読者のほうが正しい読みに近づくと、暗に前提されているかも。(――原注。)