ロマンシング・サガ 3 や、ゲームのシステムというものについて

  • じゃあ、つーわけで、ロマンシング・サガの話をしましょう。まあどうなるかはよく分からんが。
  • 主に、ロマンシング・サガ 3 について話をする。以下、ロマサガと言ったらこのロマンシング・サガ 3 のことだということにする。
  • おれは今、このロマサガについて理解をしたいと思っている。さて、それが他の人にとってどれだけ有用か分からないけれど、とりあえずそこで為される理解がうまくいっていることはおれに資するので、まあ考えを見て貰うことで何かいいことがあればいいなあと。
  • でもねえ、どんなことを言ったらいいか、まだよく分かってないんだよねえ。
  • さて、まずは、この辺から。ロマサガ 3 て(ああ、もう略記のことはいいや)、仲間が増えるとき、特に重要な会話もなく仲間になるじゃない。あれはどういうことなのだろう。これは他の RPG にはない特徴だと思う。まあ、おれが知ってる他の RPG なんて多くないけれども、ロマサガほど仲間との出会いを(会話の重要性という観点で)軽視しているゲームはないんじゃ無かろうか。ドラクエ 3 では酒場で仲間を募るね。そのときにはたしかに特別な会話はない。でもいいのさ。あそこで仲間になるのは言ってしまえば金で募った仲間なので、あーきっとビジネスライクにやってるんだろうなー、と考えれば一貫するから。彼らは、言わば無名のキャラクターたちなのであって、FF 7 のエアリスとか、ティファとか、ええとあとバレットとかとは違う。FFT とか、まあおれはよく知らんけれども Tactics Ogre なんかでは有名・無名の区別がはっきりしてきて、ストーリーによく関係するキャラ(そのキャラのためのイベントが用意されているキャラ)と、そうでないキャラが明確に異なる。FFT なんかの場合には「顔あり」などと言うけれども、専用の顔グラフィックスがあるキャラと、無いキャラがいる。その区別で言ったら、ドラクエ 3 は、勇者以外はみんな無名で、ロマサガ 3 では、みんな有名キャラなのだ。が、その割には仲間との出会いと別れにドラマがなさ過ぎじゃないですか。それでいいんだろうか。と問うてもいいけど、まあ多分それでいいんだと思う。
  • そうだね。このままでは話が転がっていかないので、一つ問題を立てようか。そうねえ。どうなの、「ロマサガ 3 の面白さはストーリーではない部分の、ゲームのシステムにあったのではないか」という問いでは。大体フリーシナリオ、などという形式を採るからストーリー性が希薄になるのであって、と言ってもいいけれども、さて。
  • ストーリーということを「話の筋」と言い換えたって話は前に進まないのでもうちょっと具体的なところに目を向けよう。ロマサガ 3 で、主人公たちは何でアビスゲートを閉じることになったんだっけ? おれは覚えてないなあ。ヨハンネスの話を聞いて、なんだか世界が大変なことになっとるッすよ!? っていうことでアビスゲートを閉じるのに奔走することになったんだっけ? つか、あれ? でも七人ぐらいいる主人公たちは、それぞれに、物語開始当初の目的というものを持っていたはずだよな。それはどうなったんだろう。それぞれの主人公たちの目的が、うまい具合にアビスゲート閉じと繋がっているんだろうか。でもなあ、カタリナのシナリオ(おれが明確に覚えているのは昨日貼り付けた改造版のものであることに注意! どうせそんなに違わないでしょ、と思っている)だと、マスカレイドを取り戻すという当初の目的を果たしてのちも、それで一件落着じゃあなくて、冒険を続けることになる。何でだ? 途中でアビスゲートがやばいって言う話を聞いたからか。そいつは、いかにも継ぎ接ぎなストーリーじゃあないか。
  • だが、それでもいいのだ。少なくともおれはそれであっても楽しめる。なんでアビスゲートを閉じなきゃならないのか分からなくても、楽しめた。例えばカタリナなんかは世界の危機についてそれを危機だと思っているのかどうか不明だけれども、それでもプレイヤーは世界を救おうとする。もしかしたらプレイヤーが物語の中の世界の安全を危惧してその世界を救おうとしているのかも知れないけれども、まあそれは分からないことなので擱いておく。ともかく、まあきっと、世界が崩壊するのはまずいことなのでそれを止めることがきっと物語の目的なのだろう、と理解して、プレイヤーはゲームを進めているのではないかなあ。要するに、そうだなあ、ロマサガ 3 では、明確なガイドなしにもなんだか知らんがプレイヤーはゴールに向かってゲームを進めいているのではないか? というわけだな。
  • そしてそれが合っているのか合っていないのかということは、まあいいということにしよう。調べる方法もあるにはあるが、大変だし。ともかく、そんな、ストーリーなんかあってないようなものであるロマンシング・サガ 3 が、どうしてあんなに面白いとおれには思われるのか。そこを考えよう。ここで念頭に置いているのは、「もしかしてシステムが面白かったからじゃないか?」という仮説だ。ロマンシング・サガ 3 の何が良かった? 或いは、こここそ、昨日貼り付けた改造版のロマンシング・サガ 3 を引き合いに出すときだ。ストーリーなんか完膚無きまでに放り投げられたあの改造版の、どこが面白かったんだ? それを考えよう。
  • そりゃあシステムが良かったのだ。
    • (i) 技は閃くものだ。強敵でこそ技が閃きやすい。
    • (ii) 雑魚敵は回避するものだ。回避したって、ボスでは技を閃いて何とかしのぐ。そのスリルがいいんじゃないか(但し実際の自分のプレイは雑魚敵を全て倒していくものだった。動画で見て、回避するプレイスタイルの方がより楽しいプレイの仕方だと思った。だが、まあそれには回避の練習をしないとならないので結局それはしないだろう)。雑魚敵というのは、戦えば戦うほど強くなるものだ。雑魚敵が強くなるのだ。ランクアップするのだ。逆に言えば、戦わなければ、回避をし続ければ雑魚敵は弱いままだ。と、いうことは、フリーシナリオの構成に従ってどのイベントから始めてもそれ相応の雑魚敵と出くわすという作りになっているのだ。イストワールは、ここが異なっていた。イストワールは戦った回数によって雑魚敵の強さが変わるような仕様にはなっていなかった。これがロマサガライクな仕様であったならばおれはもっと気に入っただろうに。
    • (iii) 仲間がさくさく増えるというのも良かった。ここで仲間との淡泊な付き合いというものの評価が好転するのだと思う。特に因縁など無く、まあそりゃあ仲間にするためのイベントとか条件とかはあるけれどもそれをクリアしたら「今度はあたしが力を貸す番ね!」みたいな話は極力減らして(アセルスではこれがあったね)、「今日は何のようだ?」「仲間にする」の選択だけで仲間になる(ボルカノ)。と、言いますか、FF の近年の作品を見れば顕著だけれども、何か、仲間との運命的な出会いなどというものに砂を吐きかけるが如き運命性の少なさではないですか。FF 10 のティーダとユウナのことはよく覚えているが、あの二人のあいだに存在していたようなパーティ内恋愛などというものは起こりようもない。何しろパブに行ったら五秒で別れられる仲間なのだから。でもそれでいいの。だって、何人もいる仲間候補から、今度はこれで行ってみよう、という挑戦精神を満たすためにはその方が容易なのだから。或いは、仲間を変えてみる、という試みが容易く実現できるのだから。FF6 は飛行船に仲間が集まって、そこでフィールドに出て行くパーティを決められるのだった。感覚としてはそれに近いだろう。今まで活躍させていなかった奴は、どんな能力を持っていてどんな姿なのだろう。そういう楽しみがあるわけだ。これまではストーリーが要請するイベント強制出撃キャラ(これはスパロボ的な発想だ)を中心にパーティを組まなければならなかったけれど、これからは自由にパーティを組むことが出来る。これは良いことだと思わないか。クロノトリガーでは、クロノの死後、クロノをパーティに加えなくても良いようになる。そのことが分かった途端、わくわくしなかったか? それは楽しいことではなかったか? ロマサガ 3 は、それを始めからやっているようなものではないか。主人公だけはパーティから外せないけれど。まあ、七人もいるのだし当該の主人公を外してみたければ別の主人公で始めてみればよろしい。
    • (iv) ついでに言うと、物語開始直後から誰を仲間に入れるかということが相当自由になっているということは、様々な縛りプレイをする上では重要なことと推察する。おれは殆ど縛りプレイをしないけれど、タイムアタックや、或いは低レベルクリアなどをする場合には、どのようなパーティを組むかが死活問題になるだろう。そのとき、始めからパーティの自由度が高いロマンシング・サガ 3 は、その点で工夫のし甲斐があって、そのような縛りプレイに向いているのではないか。それは即ち、動画としての面白い企画が出来るかどうかということに直結する。まあ、これは縛りプレイを楽しいと思う人にしか説得的ではないポイントなのだけれど。
    • (v) 音楽と造形美術についても言っておかなければならないだろうなあ。ただ、これは普通言う場合のゲームのシナリオとは余り関わらないことなので余り強調することは出来ない。だが、音楽と造形美術という二つの点がゲームの面白さにどの程度寄与しているかを見ることは大事だ。もしも、音楽が全く別のものになり、絵的に表現されているものが別の何かに変わってしまったときに、現在認められる面白さが減じてしまうのだとしたら、音楽と造形美術はそのゲームの面白さに寄与をしている。だが、問題はその程度だ。そりゃあ、どんなゲームに於いてだって音楽と造形美術は面白さに寄与しているのだ。それは当然だと思う。では、ロマサガの場合、その度合いはどの程度だ? 例えば絵的なものはそのままにして、音楽だけをガラリと違うものに変えた場合、どのように感じるだろう。昨日貼った例の改造版の動画では、ロマンシング・サガに特徴的な音楽が全く以て詰め込まれていた。それらが全く別のものになったとしたら、どうだろうか。例えば、そうだなあ。音楽を東方のものと置き換えたとしよう。そのときには、なんだか合ってないなあ、と思うだろう。そりゃあ、七英雄と戦うときには七英雄バトルが流れて欲しいのだ。ああ分かった、では絵も変えよう。東方の音楽には東方のキャラクターが合う。そうだろう。だったら、敵キャラも、味方キャラクターも、東方のものと取り替えよう。そらどうだ。…………どうなのかねえ。出来上がるのは、何だろうか。東方版ロマンシング・サガか。ほほう。それはそれで面白そうだわねえ。いいわねえ。楽しくなってきた。ああ、じゃあ、音楽と造形芸術に於いてはその互いの適合の具合とでも言うべきものが重要なのであって(そして作品を決定付けるだけであって)、本来的に作品の面白さに関わるのはそのシステム(とストーリー)だけなのですね。……ってそりゃ本当ですか。さてねえ。でもねえ、音楽と造形美術のあいだの適合の具合は問えるけれど、システムと音楽、システムと造形美術のあいだの適合の具合は問えない気がするわね。そうじゃないか? ああ、システムと言っているのはここまで見てきたような、フリーシナリオ制であるとか、ストーリー性が希薄であることとか、技は閃くものであることとか、そういったことだ。果たしてストーリー性が希薄であること自体に適するような絵柄とか、音楽といったものがあるのだろうか。
  • さて。少々話を進めてみようか。そうねえ、おれは、ゲームのシステムに関する好みというものもあると思う。先程の東方版ロマンシング・サガというのが一つの思考実験になっているけれども、キャラクターや音楽といったものが変更されても残っているシステムによって、そのゲームの面白さは或る程度、固定されているのではないか。少なくとも期待しているという点ではそうだ。「東方版のロマンシング・サガ」ということを想像したときに思うのは、「あの東方で、ロマサガのフリーシナリオ RPG かよ」ということだ。そりゃあたしかに東方の RPG を見てみたいという気持ちもあろうが、それがしかもロマサガのようなフリーシナリオの RPG であるというところに高い得点を授けるのじゃないか。そこでは、或るシステムを採用しているということに得点を授けているのではないか。
  • 次に話題にしたいのは、ゲームのシステムには著作権はないのではないかということだ。いや、著作権というからいけないのであって、ゲームのシステムは真似をしてもいいのか、ということを問題にしたいのだ。ここでは創造性ということも問題にしたくない。創造性なんてのは扱うのに厄介なものであるに決まっているのだ。だから、こうだ。もしかしたら、ゲームのシステムをパクることはもしかしたら非難に値しないのではないか。これぐらい穏当なバージョンであれば、この問題にコミットしてもいいだろう。絵や音楽のことは問題にしない。そんなものはちょっと似ていただけで非難の嵐に決まっているのだ。明確に二次創作を謳わない限り。だが、システムだけは、他と同じものを使っていても、不思議と非難されない。事実、ドラクエスタイルとでもいって良いシステムの RPG が氾濫しているではないか。それらは、ドラクエと同じシステムを採用しているからといって非難されたりはしない。いや、それどころかそれはシステムの典型になっている。RPG ツクールシリーズRPG のシステムの典型と見ているのはドラクエスタイルのシステムだと言ってみよう。それはフロントビューの戦闘シーンを備え、雑魚敵を倒してレベルアップするというのを繰り返す。
  • きっと、システムにだってパクっていいか悪いかについて程度があるのだろう。恐らく、上からオブジェが二つずつ降ってきて、同じ色のオブジェを縦横四個繋げたらそれらが消えて、重力に従ってその消えたオブジェの上にあったオブジェたちが下に落ちてきて、さらに縦横四個になっているか否かのチェックを受けて……、という方式の落ちものゲームがあったら、そりゃあ「ぷよぷよ」じゃないか、ということになるだろう。ぷよぷよ以外の落ちものゲームが、まさしくぷよぷよでオブジェが消える仕方や条件を真似しないのは、それをやったら非難されると分かっているからだろう。まあ所詮思考実験でしかないけれども、多分そうだと思う。そして、真似をして非難されるかどうか、ちょっと分からないというボーダーケースもあるのだろう。東方花映塚ティンクルスタースプライツと殆ど同じシステムになっているわけなのだが、花映塚が非難されずにいるのは、一つには同人だからで、もう一つには、まあ ZUN のすることだから……みたいな空気とかね、そういうのがあるんじゃ無かろうかと思うね。実際、花映塚が発表されたときには、ありゃあパクりじゃないかという非難の声が上がった覚えがある。けれど同時には、花映塚は後続者がいなくて消えそうになっているあの対戦シューティングのシステムを継承し、命脈を保存しているのだ、という議論も見かけた。恐らく、ケイブのような大手のシューティングゲーム会社があのシステムを採用したら、みんな納得したのではないだろうか。まあ所詮思考実験ですけど。(花映塚の前にも同じシステムを採用した東方の作品があった気もするけどその話はいいや)
  • ロマンシング・サガ 3 が採用しているシステムは、無論複数あり、それぞれに、そのパクっていい度合いは異なるだろう。だが、総じて低いのではないだろうかと思う。あっさり仲間になるシステム、技閃きシステム、フリーシナリオ制、エンカウント数による雑魚敵の能力決定システム。まあ最後のシステムは微妙だとしても、どうなの、追随者が現れてもいいんじゃないの。RPG ツクールでゲームを作ろうと思ってそちらの界隈のサイトを見て驚いたのは、技閃きシステムのスクリプトが公開されているということだった。いや、何も、だからパクってもいいのだとは言わないけれど、少なくとも、技閃きシステムを流用してみたいと思う人がいるのだということは、このくらいは引き出してもいい結論だろう。FF でお馴染みのアクティブ・タイム・バトルのシステムも公開されていた(どこだったかは面倒なんで調べないけれども)。
  • でも、それにしても、個々のシステムのパクっていい度合いはどういう風に決まっているんだろうな。今のところは直観的にこうだろうなあというぐらいしかアイデアが無くて。
  • さて、そろそろ結論に飛び付こう。
  • ロマンシング・サガ 3 は造形美術と音楽をさて擱いても、魅力的なシステムを採用していたんだよ! ごめん、ちょっと違うね。ゲームのシステムってのは多分パクってもいいよね! あ、これもちょっとな。うむ、ゲームのシステムというものにはまだもう少し謎が残っているね! ということで一つ。