• それにしても内田百閒の阿房列車を漫画にしたものを読んだけれど、これが面白い。なんで内田百閒のものを漫画にしようと思ったのか分からなかったけれどともあれ店頭で新刊本として売られていたから買ってみた。阿房列車は文庫で買ってあるからどうして漫画で読むのか。まあともあれ内田百閒の文章を漫画にしたというその手並みというか、その心意気を見てみるつもりで買ってみた。何人かの人には言ったことがあるけれど、多分僕は文体とか話の転がし方として内田百閒から影響を受けている所があると自覚していて、彼のものを読んだ直後に書きたいように書くとなんだか似る気がする。そういうことを言うのが、なんだか恐れ多いとか気恥ずかしいとかという気もするけれど、気にしないことにする。
  • 彼の書いたものが、発表された当時でも評判になったというところが驚く。多分僕は彼が書くような昔の風景とか昔の情緒とか、そういったものが特別好きなのであって、当時の人々が紀行文やエッセイとして彼のものを読んで僕と同じように評価するとは思えない。僕が何を楽しんでいるかと考えれば、多分それは、古い時代の教養人が、その当時に於いて、徹頭徹尾頑固者として自分を描くのを楽しんでいるのだと思う。だからそこで楽しまれているものは(とかと考え出すと段々彼に似なくなっていく)当時という時代と、その時代に生きていた作家と、その時代の生活と、そうしたものが受け入れられていたという事実だと思う。
  • これも何度か言ったことがあるけれど、1920 年代から当たりの時代が好きだ。阿房列車自体は 1950 年代のものだけれど、まあ大体許容範囲で、大体その辺の時代のものが結構好きだ。1920 年代ということで言えば、ラヴクラフトとかビアスもその頃のはずで、だからその頃のアメリカも好きだ。ということになっている。そういう趣味を持っているということにしておくのが、楽しい。
  • 作品から、その書き手の心情など分かるわけがない、ということはしばしば言われる。では、当時の社会的な状況は、分かるのだろうか。目の前にいる人間の心情は本当には分かりっこない、という理由から、同様に作品から作者の心情は尚更分かるわけがない、というのが一応の議論だと思うけれど、ではなぜ、当時の列車の様子とか駅の様子とか、或いは出版社と作家の関わり方とか、当時の食生活とか、どうしてそういった類の事柄が、作品に書かれている通りだと思うのだろうか。何かに照らしてその通りだと思うのだろうか。1950 年代の頃とか、1920年代のことをもう調べることは出来ないのに、どうして百閒の文章が当時の状況を知らせてくれると言えるのだろう。おっと、これはいけない。