いかにしてスーパーロボット大戦に参戦すべきか

  • ゼロアカ道場のことを久し振りに調べてみて、動画を見、ああ矢張り我々は文化というものを享受しているんだな、と思い直したので、またおれももう一度例のことを考えてもいいのではないか、と思い直した。それは、いかにしておれがスーパーロボット大戦に参戦すべきか、という問題である。
  • おれはスーパーロボット大戦に出たい。参戦したい。原理的に言えば、おれがロボットに乗って戦いたい。ゲームの中で。しかしそれは不可能かも知れない。何故ならここには恐らく二つぐらいの困難があって、一つにはおれがロボットを操縦して戦わなければならないということ、そしてもう一つに、おれがゲームの中に入らねばならない、ということが避けがたく難しいからである。特に二つ目の困難が著しい。これは殆ど不可能ではないかとすら思われる。おれがゲームの中に入っているということが良く理解できない。おれは、或いは人は、どうすればゲームの中に入れるのだろうか。その人物のいる周囲、或いは環境、世界がゲーム的であればよいのだろうか。そうかも知れない。しかし、その世界はただゲーム的であればよいのではなく、スーパーロボット大戦でなければならない。そうだ。おれがいるこの世界に、種々のロボットが実用されていなければならない。然るにこの世界ではそういうことは起こっていないように思われる。だから、おれがいるこの世界はスーパーロボット大戦の世界ではなく、またおれが世界を跨いで移動することが出来ない以上、おれはスーパーロボット大戦に参戦できないかのように思われる。
  • だが本当にそうなのだろうか。おれは、或いは我々は、スーパーロボット大戦というゲームをプレイする。そうだ。我々はスーパーロボット大戦に触れることが出来る。接触することが出来る。スーパーロボット大戦が実現されている世界はそこにあり、我々はそこへのアクセスを有している。アクセスすることの出来る世界に入ることは、そんなに難しいことなのだろうか。さてこういう考えはどうだろうか。我々がいるこの世界というものは、実にスーパーロボット大戦を含んでおり、スーパーロボット大戦を一部に有している。スーパーロボット大戦があって初めてこの世界はこの世界である。そこで、この世界に在って、スーパーロボット大戦は我々がその中に存在しているような世界ではないと判断しているのは私である。しかし本当にそこには区別があるのだろうか。私が世界を跨いで移動することが出来ないというのはその通りかも知れないが、既に我々はスーパーロボット大戦がある世界にいるのではないか。
  • だがこれではまだ問題は解決していないように見える。それは、スーパーロボット大戦がある世界にいるということと、スーパーロボット大戦に参戦することは同じではないからである。おれは、一体どういうことになれば、スーパーロボット大戦に参戦したことになるのだろうか。その必要条件の一つが、おれがロボットを操縦するということであった。仕方がない。自信はないが頑張って練習することにしよう。だが、おれが操縦するべきロボットはどこにあるのだろうか。ガンダム Mk-II でなくともよい。おれのためのロボットは、どこにあるのか。仕方がない。これは作って貰うほか無い。では、おれがロボットに乗り、ロボットを操縦し、戦うとしよう。では、それで、おれはスーパーロボット大戦に参戦したことになるのか。
  • 他のアニメ作品からの参戦が無くては、その参戦はスーパーロボット大戦への参戦ではない、という意見もあり得よう。だが私はそうは考えない。それは、スーパーロボット大戦オリジナルジェネレーションズというものがあるからである。たしかに既存の版権作品からの参戦があった方がよりよいということには賛同するが、だが、それが無くてはスーパーロボット大戦ではない、という見解には賛同できない。というのも、もし賛同するとしたら、オリジナルジェネレーションズはスーパーロボット大戦ではない、と言わねばならなくなるからである。とは言え、確かにここは直観の分かれるところかも知れない。オリジナルジェネレーションズはスーパーロボット大戦ではないと考える人もいるかも知れない。だからここでは、私は飽くまでも自分の見解を言うだけにしておこう。私は版権作品からの参戦が無くとも、スーパーロボット大戦は成立すると思っている。
  • しかし、おれは、本当にロボットに乗りたいのだろうか。それは難しいことだ。おれは何も、コックピットに座りたいわけではない。だが、射程 4 ぐらいのビームライフルを撃ちたいのだ。だんだんよく分からなくなってきたが、そうだ、おれは、コックピットに座ることなく、射程 4 ぐらいのビームライフルを撃つことが可能だと思っている。恐らくそれがゲーム的ということなのだろうと思う。そうだ。おれがスーパーロボット大戦に参戦する以上は、そういうことが出来るのでなくてはならない。ロボットに実際乗ることなくロボットを動かし、かと言ってリモコンで操縦するというのではなく、別の何かで、動かしたい。例えばそれは、そう、コントローラーパッドのようなもので。だが、ここでゲーム機でスーパーロボット大戦がしたいというのではない。それは既にもう何度もやっていることだ。それは、おれがスーパーロボット大戦に参戦するということではない。それはスーパーロボット大戦をプレイするということだ。スーパーロボット大戦に参戦するということは、そういうことではない。いや、おれがスーパーロボット大戦に参戦しつつ、同時にそのスーパーロボット大戦をプレイするというのでも構わない。それが可能であるならば。そうだ。おれは、コックピットに座らないが、そのロボットのパイロットはおれであり、そのパイロットであるおれはロボットを動かし、戦う。それが、スーパーロボット大戦に参戦するということだ。
  • 問題は、これがいかにして可能か、ということである。ここで、おれがロボットアニメ作品を作り、商業的に成功し、その誉れを以てバンプレストに掛け合い、スーパーロボット大戦に参戦するというのは、妥協であろうか。いや、その前に、適正な参戦であろうか。その場合に、おれは果たして本当に参戦しているのだろうか。そこで参戦しているのはおれの作品であり、パイロットであるのはおれの作品の登場人物であって、おれではないのではないか。おれは、何も、自分の作品をスーパーロボット大戦に参戦させたいというのではない。おれが、参戦したいのだ。では、おれが、そのロボットアニメ作品に登場していればよいのか。そのアニメの中でおれがロボットに乗り込んでいたらよいのか。そうかも知れない。たしかにその場合、その作品がスーパーロボット大戦に参戦したとすればそこでロボットのパイロットとされるのも、おれであるかも知れない。だが、本当にそうか。その人物は、おれと同じ名前の人物であるに過ぎないのではないか。おれは、おれというこの人格の同一性を持ったままに、スーパーロボット大戦に参戦したいのだ。
  • こうしてこの論考は、一旦暗礁に乗り上げるように思われる。この隘路を切り抜けるのに、おれには今のところ一つぐらいしか方法が思いつかない。それは人格の概念を変更することである。この問題はまたいずれ論じよう。