これからどのような作品に出会うのか、想像が付かないね。

  • まずは次の動画を見よ。

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  • 以下所感。
  • この動画は我々の文化の所産であるが、しかしこのようなものが我々のアクセス可能な範囲に現れることは、私には予想できなかった。思うに、一般に、新しいものが文化にどれほどの割合で現れるかは、私の、或いは我々の想像を超えるのだと思う。それは、文化的なものは、私の、或いは我々の想像力から生み出されるからだ。そうだ。次のことは明らかに正しいと思う。少なくとも現時点では、文化物はその文化に属する人々の想像力によって作られる。文化物は、人が思い描いた程度のものでしかない。如何なる文化物も、誰かが想像したものである。それはそうなのだと思う。それであれば、私の、或いは我々の想像の範囲を超えた文化物が生み出されるのはなぜか。文化物に出会ったときに、それが私の、或いは我々の想像の範囲を超えていると思うことがあるのはなぜか。文化物は誰かの想像したものでしかないのではなかったか。私は、それは文化圏が十分に広く、かつその文化圏に十分な流通があるからであると思う。
  • ここで、一つの文化圏には、基準となる一つの文化レベルがあると想定しておく。その文化に浴する者であればそのレベルの文化物を常識として受け止めるような、そういうレベルがあるものと想定しておく。人々の中には、そういう基準となっているレベルよりも高い水準の文化物を生み出される者がいると思う。けれど、基準のレベルを大きく超えるような者を作れる者は希少であると思う。しかし、文化圏が十分に広ければ、そういう人物の数も増えよう。そしてその文化圏に十分な交流があれば、そういう人物たちが出会う可能性も高くなるだろう。基準となっているレベルを大きく越える作品が、或いはレベルを超える作品が多く、生み出される背景には、そのような事情があるのではないか。作品を見て素晴らしいと思った人間は、その作品を想像することが出来ていなかった者だ。そういう私や、或いは我々の想像力を越える人物が、この文化圏に何人かいたのだ。だからそのような作品が生み出され、私や、或いは我々を驚かせたのだ。私や、或いは我々はその作品を想像する力を欠いていた。しかし違う作品ならば想像する力を持っているかも知れない。そしてその作品は、私や、我々以外の誰かを驚かせるかも知れない。
  • 私は、私の属している文化圏の文化に浴する人間であると自覚している。だから、これからこの文化圏にどのような作品が登場するのかを想像する。そう、それすらも想像なのだ。私はこれまでにもそういう想像を繰り返してきた。だが、その想像は裏切られても来た。この度の上の動画は、その実例の一つである。多分、私や、或いは我々の未来についての想像は裏切られる。それは、この文化圏には私や我々を含めて多くの人間がいて、それぞれに奇抜なことを考え、共に語り合っているからなのだろう。きっと、私や、或いは我々といった程度の規模の小さな想像者には、これからどのような作品が現れるのか、想像できないのだろう。そう思う。でもそれはいいことなんだよ。私や、或いは我々にはどんなものが現れるか分からないから、まだ見ぬ何かを「楽しみにする」のであろうし、きっと私や、或いは我々ほどの想像力は他の誰も持っていないだろうと思うから、自分の想像力で驚かせてやろうと思うのじゃないか。