D

  • ……単刀直入に言うと、最近、おれは、文章の技芸とか、ストーリー構造とか、或いは図像的表現ということよりも、楽曲に強く感じるところを有している。
  • また、これも単刀直入に言うが、おれは、芸術に於けるパクリだとか、盗作だとかということを、さほど大きな問題だと思っていない。例えば、次の動画が騒ぎ立て、また騒ぎ立てられているほどには、大きな問題ではないと思っている。

D

  • それは、おれの中では、個々の作品は宝石と類比的に捉えられているからだ。ルビーは、他のルビーに非常によく似ている。しかし、それを誰も咎めようとはしない。また第二のルビーが第一のルビーに似ているからといって、それで第二のルビーの価値が減じるとも思われていない。これと同じように、第一の曲によく似た第二の曲があろうとも、そのことに基づいて第二の曲をけなす気にならない。ただ、勿論、ルビーのような自然物と、曲のような人工物は一応別個であることは認めているので、第一の曲によく似た第二の曲を作ってしまった人のことは、僕は、「キミ、あんまり頑張らなかったね」と見做すことにしている。
  • 大胆にもう少し言えば、この第二のものは第一のもののパクリだ、と言って、第二ものを貶める人は、曲でないものの評価に引きずられてその曲を評価してしまっているのだと思う。そこで曲の評価に紛れ込んでいるものは、具体的には、作者の創造態度だろう。既存のものによく似たものしか生み出せなかった作者の不手際を低く評価するのは、そのこと自体では適切なことであると私も思う。しかし、それは、曲自体の評価とは別個に考えることではないのか、と思うのだ。
  • なんか、この話は以前にもした気がするんだが、まあいいや。
  • でも、ここからの話は、まだ書いたことがなかったと思う。私は、文芸作品を解釈する際にその作者についての情報を度外視する立場と、上で言った曲の評価についての立場は、相性の良いものだと思う。というのも、共に、目の前に実際に与えられている作品群を越えた、作者というものを参照することをやめるべきだと考えるからだ。が、まあ、なんだかこういう枠組みは何年も前からおれの身近なところで語られてきたものだから、少々時代遅れなのだろうかなあとも思うので、こんなものにしておくか。