カラオケと、批評家と批評について

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  • 実は、おれが最も良く格闘ゲームをやっていた時期は、この 『KOF 95』 の時期だった。しかし、こんな歌があったんだな。それにしても、良い歌なのだが、絶対にカラオケにないだろうな。ああ、カラオケで歌いたいと思うが、多分おれ以外の誰も知らないだろうし、だっておれだって今知ったのだし、多分そもそもカラオケに入っていないさ。それにしてもカラオケというのには二つあって、一つは歌が歌いたい人が歌が歌いたい人と行くような歌うことが主目的であるようなカラオケであり、もう一つは、騒ぐために行くようなカラオケだ。この後者に於いては、カラオケは単に騒げるから行かれるのであり、騒ぐためであれば本来はカラオケでなくても良かった。偶然的に選び取られているだけである。私たちは、というか、私は、この二つの区別があることを覚えておかなければならない。特に、前者と後者に於ける曲の選び方の規範は異なるのだということを念頭に置くべきだ。特に、後者に於いては、みんなが知っていて、騒げる曲を選ばねばならないことに注意せよ。この区別を履き違えたとき、悲しい悲しいことが起こるのではないか。それは、え、お前何考えてんのっていう情け容赦のない排除の圧力であり、圧力は大抵目に見えない。だから私たちは、という私は、そのことをよく理解しておかねばならない。特に、上のような曲は後者のカラオケに於いては選ぶべきでないということを。まあカタログに載ってないと思うけどな。だが、おれは、この曲を、この曲を知らないみんなに向けて歌ってやりたいのだ……。
  • それにしても後者のようなカラオケはファッキンシッボーイですよなんていう頑なな心持ちは良くないのだろうと反省をする。きっと一体、カラオケの産業を支えているのはそういうことを目的とした顧客なのだろうなあと思って見たりするがそれは経験的なことなので事実はアンケート紙の向こう側である。
  • しかしそれにしても「奇抜なことを」書こうと思っても、口を開いて自然に出てくるのは常識への批判であり、作品について語ろうとするときに漏れるのは印象批評であり、理知的に語ろうとして見え隠れするのは昼間の所行であり、じゃあどうするかと思って詩でも書こうとするとえらく時間が掛かるのを思い出すのだ。
  • それにしても印象批評というのは何が悪いのだろうか、と言い出してみて、印象批評の良いとこ探しをしてみようか。印象批評でよいのさ、と開き直ることは可能なのか。まあ可能なんだろうな。結局薬局購買によく結びつくのは印象であるから。何かを読んだ誰かが、その印象を語る。そしてその語られた印象を誰かが聞き、え、この人がそんな風に言うんだったら本当に面白いのかも知れない、と思う。これこそが、実際に起こっていることなのではないか。いや、勿論事実はアンケート紙の向こう側ですが。まあそれはいいんですが、大体に於いて、これはいつか誰かに言ったことがあるように思うが、私は、印象的にではなく多少なりとも理知的に批評を行う必要のある作品など、消えなくなっても良いのだと思っている。そんな、「難しい」作品を書く方が悪い。なんでそんな、批評家無しでは面白さが分からないような作品を、批評家は救ってやろうなどと思うのだろうか。いや、個々の批評家には理由があるのだろう。だから僕がここで言いたいのは、批評家が「放っておいたら消え去ってしまうような」作品に高評価を与えるのは勝手なのだが、またそれでもってマイナーな作品がより長く存続できるようになったらそういう作品のファン達は嬉しいのかも知れないんだが、でも、それは、そんなに、凄いことなのかな、っていうことだ。放っておいたら消え去ってしまうような作品に高評価を与え、また寿命を延ばすことは、そんなに凄いことなのかな。そんなに凄いことではない、と考える理由がある。それは、批評家の登場の前からその当該の作品を享受していた人たちは、前々からその作品の良さを印象によって知っており、また寿命の短さを懸念していないだろうからだ。その作品(とそのジャンル)が永続すると素朴に信じている人もいるだろうし、またそもそも寿命に思いを馳せたりなどしない者もいるだろう。或いは、寿命が尽きれば単に次に移るだけの者もいよう。もしこれが正しいとしたら、批評家は、誰を救っているのだろうか。或いは、何を。作品を? 誰も頼んでいないのに? それとも、批評家は自身が批評したいから批評するのだろうか。その答えもアンケート紙の向こう側だけれど、もしもそうだとしたら、それって、誰が得するのだ。
  • もう一点。理知的な批評が出来ることで有名な人物(所謂批評家)は、公な場所で印象批評を行ってはいけないと思う。これを支持する想定は、こうだ。第一に、批評家は、作品・ジャンルの価値を決める(作る)ことが出来る。第二に、批評家がそれについて発言してない作品・ジャンルは、大抵、批評家以外の享受者たちの購買と印象批評によって支えられている。この二つを認めると、まあこういうことになるだろう。印象批評と買うだけしかしない(出来ない)人々が成立させていた作品・ジャンルに、批評家が印象批評を行ったとする。このとき、その作品・ジャンルの価値は、その批評家の印象批評によって定められる。そしてそれは、場合によってはそれ以前の(非批評家達の)印象批評と食い違うかも知れない。これは、たとえて言えば、後出しジャンケンのようなものだ。ここでは第一の想定に注意すべきだ。ここでは、批評家は、たとえそれが印象批評によってであっても、価値を決めることが出来る、ということになっている。これは、理知的な人々に言わせればおかしいかもしれない。例えば、批評家が価値を創造するのは理知的な批評によってのみだ、と言うかも知れない。だが非批評家はそうは思わないだろう。ここでは非批評家を啓蒙しても良いが、僕は批評家に、李下に冠を正さず、と言いたい。この社会で実際に多く流通しているのは、印象批評であることを思い出すべきだと思う。また、批評家による印象批評が、それ以前の印象批評と大筋で同じものであったとしても、問題が生じると思う。それは、それまでの非批評家たちの、その作品・ジャンルを成立させてきたという誇りを傷付けるからだ。あとからやってきた批評家に肯定的な印象批評をされた人は、「この作品・ジャンルは、お前が良いと言ったから良いのではなく、前々から良かったのであり、それを存続させていたのはオレたちだ」と言いたくなるのではないか。もっとあからさまに言わせれば、「俄がドヤ顔すんな」ってなもんだろう。
  • それじゃあ、批評家には公に印象批評をする資格がないのか? それは、批評家と呼ばれる人々から、我々の誰もが日常的にやっている言語活動の一つを禁じることではないのか。それは不当ではないか、という疑問があろう。僕は、それは、不当ではない、「価値を決定・想像することが許されているための対価である」と答えたい。あなた方は、作品・ジャンルの価値を決めることが許されている。だから、言動は慎みなさって。非批評家の多くには、印象批評と理知的な批評の区別がない。それを擱いても、さまざまな作品・ジャンルをよく知っている批評家が感動したのだ、きっとこの作品・ジャンルはそのように見るべきものなのだろう、と、非批評家は、あなた方を信頼しているのだ。せめて、批評をするときには、非批評家に出来ないくらい理知的な仕方で。
  • 最後に、僕がこういうことを考え、書く、下心を述べておく。不必要な深読みが起こりそうなので。それは、僕としては、印象批評と理知的な批評の区別を厳密に守っているつもりだったのだけれど、つい、うっかり、僕が好んで好んでいた作品・ジャンルに対する批評家による印象批評を目にして、つい、なんだが、ついつい、おご、がっががががが、て、てめえは好きなものを好きだと語っただけだったかも知らんがそれでてめえがそれを語ることでこの作品・ジャンルが活性化するだろうと救いの手を差し伸べたつもりがもしも片時の一遍でもその心にあったのなら、軽蔑する。ということがあったからなのだ。要するに、僕も、批評家の印象批評をまともに取り、好きなものを奪われたと思った人間の一人なのだ。いや、僕の他にいるのかどうか、それは本当はアンケート紙の向こう側なのだが。ともあれ、そういう風に思った理由を、よく考えると、多分こういうことなのだ。僕も大概ナイーヴだと分かったわけだが、多分、みんなも同じくらいにナイーヴだと思う。

追記 (13:44)

  • で、先程、甘木君と話をした結果、次のような感じで話が落ち着いた。
  • まず、批評家が存在し、市場に介入してよい理由について。一つには、文化には上昇志向があるべきであり、どういう方向に進むのが上昇であるのかを指し示すことは、批評的な行為をすることである。(そして専らそういうことをする人のことを、批評家と言う。)また、これまで、検討に値する範囲(具体的には太平洋戦争後の日本)では、批評家のいなかった時代はなかった。批評家抜きで、市場の原理によって作品・ジャンルが生成したり消滅したりすることで形成される「文学史」を望むのは、あまりにナイーヴである。更に、特にブログなどのコミュニケーション手段が発達した現代に於いては、印象批評と購買も、一つの市場介入である。「純粋な」文学史を望みつつ、ブログで印象批評するのは、整合的ではない。私が想定していた枠組みは、あまりに単純だった。
  • 次に、批評家が印象批評することについて。矢張り、批評家が公の場で印象批評することは、軽率で有り得る。特に twitter のような、発言の際のハードルが低いようなメディアで発言するときには気をつけるべきだ。批評家による軽率な印象批評に、苛立ちを覚えるのは分別が足りないのかも知れないが、しかしそれは同時に、批評家の影響力を認めていることの証左でもある。そういう人ほど、批評家の影響力を認めている。たしかに批評家にも、軽率な印象批評をするプライベートは残されるべきだが、ネット上での語りは、パブリックなものと受け取られがちである。その点について、批評家と見られる人は、注意しなければならない。
  • ということだったと思います。少なくとも僕と甘木君とのあいだでは、これで合意が取れたと思う。他の人がどう思うかは、まだ知られていない。