NHK の徴収、放送法に怒る

  • 非常に残念なお知らせ。NHK から使者がやってきて、お金を持っていった。わたくし、NHK どころかここ四年ぐらいまともにテレビジョンを見ていないのですが、なのでもう受像器を処分しようと思っていたのですが、使者が我が家にやってきた時点で受像器が部屋内にあったので、アウト。アウト。アウト。アウト。六・七月の料金を纏めて払うことになった。七月中に受像器を処分し、所定の手続を踏めば七月中の料金は返してくれるらしい。
  • これで、本当に近日中に受像器をリサイクルショップに持っていくことになったな。NHK から使者が活発に活動すればするほど、社会から受像器が放逐されるようになれば、ますますテレビジョンを見る人数が減って、テレビジョン業界は衰退する。といいなあ。
  • 言い知れぬ怒りを感じる。そもそも放送法というものはどうしてあるのだろう。僕には悪法にしか見えない。今度調べてみるか。それにしても使者の方には同情する。戸を叩いて出てきた人物がこんな思考の持ち主なのだから、苦労しただろうに。だが悔い改める気はない。こうして社会には澱が溜まるのだな。爆発しろ。
  • (21,11) と言いますか、法律を後ろ盾にして金を払うことを迫ってくるのに、こっちに社会通念を要求するのは狡いよな。どういうことかって言うと、おれはテレビをもう捨てるつもりだったから、それでは今からこの玄関先にテレビを持ってきて捨てることにしたら金を払うのは免れられるのか、ということを聞いたのだ。そうしたら、そういうのは、社会通念上許されない、と言われたのだ。どういうことなんだろうか。猛烈な怒りが湧いて来るじゃないか。社会通念上、許されない? いや、それだったら、NHK がテレビを見てもいない人物に金を払うことを求めるのも社会通念上許されないんじゃないのか? どうなんだ? 「いや、社会通念ってのは曖昧なものなんで」。と言うなら、「捕まえた、ならば私がテレビを今から玄関先に捨てて支払を免れる、というのは社会通念に反する、というのも曖昧なのですね?」と言おう。私に金を払うことを求めるのなら、私がテレビを玄関先に今持ってきても支払を免れられないということを、法律から説明すべきだった。結局あの使者は狡かったが私も頭が足りていなかった。そう指摘してやるべきだった。などと、相手も悪いが僕も悪かった図式を作ってイーブン感を出そうとしてみるがそんなものはまやかしだ。おれは、見てもいないテレビのために、金を払いたくないのだ。NHK がたまによい番組を作っているのは知っている。でもおれは見てない。見るなら金を払う。だが見ていないのだ。それでも、見るなら金を払うという条件法は真のままだ。でも、見ていなかろうがなんだろうが、テレビを持っていたらお金を払わなきゃならないということを放送法で決まっているんですよって、そういう風に使者は言った。成程な。なら、悪いのはその法律だ。
  • 私は現状、国の方針に問題はないと思っていた。思っていたんだから仕方がない。幾ら不見識と言われようがそう思っていたんだから仕方がない。だが、今回のことで、一つ猛烈な政治的立場が私の中に生まれたぞ。放送法は変えるべきだ。或いは、現行の放送法でよいのだという議論を誰かが私に聞かせるべきだ。私は今回のことで不快になり、また実際に金を持って行かれたことで不利益を被ったと思っている。これはどういう点で利益になるのだ? NHK が存続することはどうしてそれほど良いことなのだ? なぜ、私は、見てもいないテレビ番組を作っている会社のために金を払った方がいいのだ? なぜ、それが、この社会のためになるのだ。現時点の私には何の回答もない。私は、それは社会のためにはなっておらず、勿論私のためになっているとも思っていない。税だ、というのなら、まだ分かりやすいのだが、今回の徴収の名目は、税ではないのだろう。税ならば税と言うだろうからだ。では、一体なぜ、私は金を持って行かれたのだ。ここでは、「そう放送法に書いてあるから」とかというのは回答にならない。私が問うているのは、放送法にそう書く狙いは何か、ということである。
  • と言いますか、あの使者自身はそんなに悪くない。自分の所属している団体の方針がそうなっていて、それが仕事の一部であるのなら、誰だってそうする。おれだってそうする(普遍例化)。おれは、そう思っており、それの故もあって、放送法を強く疑う。一体、あれで誰が得をしているのだ。私もあの使者も、損をしているのではないか?