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 作ったカレーはチキンハヤシライスではなく、チキンカレーだった。そしてそれは水が多くてしゃばしゃばで、炊いた米は水が多くてもちもちしていた。
 水本康太は親元を離れて一人暮らしをする浪人生だ。
 或る平日の午後、予備校を何となくサボって、水本はカレーを作ったのだが、どうやらそれは失敗だったようだ。
 水本はおもむろに携帯を取り出して、電話を掛ける。
「ウェイ」
出たのは予備校仲間の高野。水本と同じのクラスの男子浪人生だ。本来、高野も授業があるはずだったが、彼もまたカリキュラムに縛られることを厭う自由人だった。
「ウェイウェイ。高野きゅん。今何してるんの?」
「今か……、今は、そうだな。街にいる」
「大宮?」
「そう」
 水本は少々焦った。なぜなら、二人の通う予備校は大宮にあるからだ。高野は、まさか予備校に向かっているのではないか。或いは少なくともその近辺にいるのではないか。いや、すでに大宮にいるという時点で十分予備校に接近しているではないか。高野よ、おれとの誓いを裏切るというのか、入校式の日に交わしたあの熱き約束を。
「……え? なんで」
「そうさな……、強いて言えば運命の導き手によって、かな。或いは美少女の予感がおれを呼んだと言ってもいい」
 高野が相変わらず馬鹿で安心しつつも、水本は質問を続けざるを得なかった。
「そうか……。美少女が、ね。それはいいことだ。安心した。教室にいるのは美少女じゃないからね。教室にいるんじゃない存在によって、その、導かれたってことなんだね」
「いや、おれは教室にいる美少女によって導かれたと思っている」
 高野は毅然と続けた。
「……たしかに今まで教室にいたのは美少女じゃなかったかも知れない。けれどおれは感じ取った。というかそれこそ「感取」してしまった。おれたちの教室に新しく美少女が転入してくるという可能性をな。だからおれは予備校に行ってみようと思っている。どうだ。それこそお前も待ち望んでいた展開ではないのか。冴えない日常が驚くべき、轟くべき事態によって一変するという展開を、お前も待ち望んでいたのではないか」
 高野は相変わらず馬鹿で愚かだったが、彼の言うことは正しかった。確かに美少女が転入してくる可能性は常にあった。あったのだ。しかし水本はそれを閉殺していた。その可能性を敢えて考えずにいた。心の底では変わり映えのしない日常が根底から覆されるのを望んでいながら、己から転変の可能性を忌避していたのだ。これはなんと相矛盾した態度ではないか。高野は愚かだが水本よりも素直だった。それが故に水本は高野を尊敬しているのだった。
「そっか……。なるほど、ね。そうか、転入か。転入ね。お前はいつも鋭いな」
 水本もいい加減馬鹿だったが、そのいい加減さがこの変わり映えのしない日常をおもしろおかしく生きていくのには大事であると、そう常から思っていた。
「分かるよ。高野。おれも、学校に行こう」
 水本は失敗したカレーを脇目に、身支度を調える。叶えることは信じることから始まる。この日常をつまらないと思い、それが変わることを願うのなら、その日常が本当に変わりうるのだと、そう信じなければならない。今日予備校に行ったら美少女が来ているかも知れない。そうとも。そう信じることは馬鹿げているかも知れないが、もしもそれが叶ったのならこの日常が変わる。ならば、信じようではないか。叶えるために。それは愚かなことかも知れないが、偉大なることは得てして不合理から……。
 水本は自室から出て、久し振りに日の目を見る。そして、「偉大なる」一歩を踏み出す。
 時の頃は六月。水本にとって、忘れられない「事件」の起こった日。天候は霽れ。だが風の強い日だった。