とても久し振りに、この紫本へと降り立つ。

 今日という日は元日だった。とにかく元日だったのだから仕方がない。年始の言葉も口端に登らせざるを得なかった。一月一日だからといってそれが一体どうしたというのだろうか。それほどまでに一月一日は特権的なのか。何故か。それは、365 日に一度の割合で訪れることに設定されているだけで、別に一月二日が元日だっていいじゃないか。一体何を言っているのだろうか。

 どうしようもなくマレフィスである。元日だからといって特別なことがあるわけでもない。今日という日は他の日と同じくらい大事で、他の日と同じくらい貴重だ。一体何を祝うと言うのだろうか。「新年を」。それなら、八月一日を「八月の初めだから」という理由で祝ったら良かろう。今日が特別だなどと考えるな。どの日も同じくらい大切だ。祝う? 何を。きっと何も祝ってなどいないと考えるべきなのだ。とにかく騒いでみただけなのだ。

 それにしてもなぜ、どこそこの人がどうしたこうした、と、ニュースで流すのだろうか。それは一体、大事なことなのだろうか。例は何だってよろしいが、痴情の縺れから女が男を殺しました。そうでしたか。南無阿弥陀仏。川の氾濫具合を見に行って水に浚われました。そうでしたか。南無阿弥陀仏。こわいねー、こわいねー。おそろしいねー。気をつけなくっちゃいけないな。そういう教訓を得る場なのだろうか、ニュースというものは。それらの一体何が、そんなに大事なのだろうか。「実際に事件・事故にあった人のことを考えてみろ! これは、当人にとってはとっても大事なことなんだよ!」ははあ。なるほど。そうかも知れない。遺族は、自分の身内に降りかかった災難を日本中に知らしめて貰ったら、気分が霽れるのかも知れない。うん。それは、ちょっと気持ちが分かる。そういうことなのかも知れない。実家の町の、寂れた古く小さな家が並んで建っている、その家々に、テレビのアンテナが立っているのを見た。テレビというのは、大事なものなのだ。テレビは矢張り、いまだに娯楽なのだ。いまだに娯楽なんだからしょうがない。

 今年もいいことありますように。そうだ。願うのは自由だ。おれも願っておこう。今年もいいことありますようにってね。今年も良いことがあるのであれば、それは、無いよりも良い。ああ本当だ。いいことがあれば、いいね。