買った本の記録を眺めて思うに、ここ二・三年、具体的に特徴付けすると大学院に入ってから、買った漫画、読んだ漫画の量が、それ以前に比べて格段に落ちているな、と。学部生の頃は、本当によく漫画を買い、読んでいた。あの頃と比べると、そうね、数字上の比較は計算すれば分かるはずなので言及しないけど、体感上は、そうね、あの頃の 20 分の 1 という感じでしょうか。もう全然漫画読んでないな。
 あの頃は、とにかくひたすら漫画を読んでいた。田舎から出てきて、沢山本を売っている本屋が沢山あったから、買いまくって、読みまくっていた、という印象だ。
 それにしても、面白いと思える漫画に出会うことが少なくなってしまったように感じる。理由? そうねえ、おれの感受性が落ちた、おれが漫画を読み過ぎた、漫画界というものがこの世にありその質が落ちた、などというのがその理由かも知れない。いや、そもそもおれが最近漫画を読んでいないから、ああ、感受性が落ちたのかも知れない。
 少女漫画、そういう話もありましたね。そっちのジャンルの本はあんまり読んでいないから、まだまだ鉱脈があるのかも知れない、という話だった。ああ成程ねえ。
 『パタリロ』はとりあえず読まないといかんかなー、と思っている。あと、萩尾望都(はぎおもと)、ですか。なんか漫画を多く読んでいると思える人の多くが、この作家の名前ををよく挙げるので、ああ、これは読んだ方がいいかな、等と思う。
 「読んだ方がいいかな」などという考え自体が、既に泥中……っ! 本当、福本伸行の言語表現は良かった。ともあれ、「読んだ方がいい」などという風に思うからいけないのだ。そんな風に漫画を読んでどうするのか。おれは漫画に何を求めているのか。
 やっぱり漫画は実存でしょう。
 それにしてもおれも歳を取ったということなのか。フィクションに語られる生き方が、フィクションにしか見えなくなったとき、人は夢を失っているのだと思う。いや、それもおかしい。人には無限の可能性が秘められているのであり、まだ何も決まっていないのであり、おれは勇者で仲間達と大魔王と戦うことも可能であった(『ダイの大冒険』)。「子供達に夢を与えたい」などと言う作家は蒙昧なのであり、作品が与えるべき描像はただの儚い夢ではない。その描像は、読み手にとって、まさに可能な事態の描像でなければならない。作家が、それを夢だと思っていては話が始まらない。夢は人を惹き付けない。本当に人を惹き付けるのは、可能性だと思う。子供に夢を与えたいと思う人は、自分が与えるものが夢でしかないと思っている。愚かだ。始めから裏切るつもりではないか。せめて、「あなたを取り囲むかも知れないものを書く」と言うべきだと思う。
 さて、おれを今後取り巻きうると思えるものはなんだろうか。例えば、老境を描く作品が描くものは、おれを取り囲みうる。そこまで行かなくとも、かわぐちかいじの書くことは、おれを取り囲みうる。なるほど、それはそうかも知れない。