こんなことを言って、本当に何人が僕の言いたいことを分かってくれるというのだろう。

 僕は麻雀でも力線が使えればと思う。

 それは抜きドラのことじゃないのか? 違う。抜きドラじゃない。麻雀に於ける力線は、恐らく親が配牌で十四枚目を引く直前に晒すものだ。そして、プレイヤーは配牌を始める前にどの牌が自分用の力線かを決めておけるのでなければならないように思う。
 大体、麻雀牌が、全ての種類が四枚入っており、その四枚は見分けが付かないというのがいけない。というか、毎局毎局、中身の同じ麻雀牌で麻雀をするというのが、疑わしい。いや、それともそれが麻雀の特殊な所なのか。よく分からない。


(9,12)
 それにしても、『ムダヅモ無き改革』に於いて席に座っているだけで勝敗が付いてしまい体が焼け焦げる、という話があったが、成程、良い発想だと思う。確かに超上級者であればそういうこともあるのだろうと思う。「座った瞬間に勝負が付く」というのは面白い現象だ。Magic の構築戦ではそういうことが起こっていたように思う。要するにこれはあれだ、ジャンケンみたいなものなのだ。いや、なにも運で勝敗が付いているというのではない。一方の人は自分がどんな手を出すかを確信していて、他方の人も確信している。だが、相手の確信の内容を全く知らないので、相手の出方を考慮に入れて自分の手を決めることが出来ない。だから、自分の確信と相手の確信が同時に明らかにされて、プレイヤーが変更することの出来ない「勝敗の決め方」(グーとチョキとパーの優劣関係)によって、勝敗が判定されるのだ。要するに、ジャンケンに於いては実際に手を出してみる前に勝敗が決まっているのだ。『ムダヅモ無き改革』に於ける座っているだけで勝敗の付く麻雀は、この点でジャンケンに近いと言っているのだ。
 座っているだけで勝敗が付くのなら、座る前に勝敗が決まっていても良いはずだ。例えば、席に座ろうとして椅子を引いただけで、負ける麻雀。新しい。それは面白いかも知れない。(ただこういう場合にプレイヤー達の勝敗を判定できるのは他人の心と牌の積まれ方を知ることの出来る存在だけだろう。つまり神のことだ。)
 なんなら、麻雀をする気もないのに負けてしまう麻雀、というのも面白い。道を歩いていると後ろから友人に肩を叩かれて、負けを宣告されるのだ。これも面白い。
 次の半荘分まで負けてしまう麻雀というのはどうだ。一つの半荘に負けると、次の半荘も負けるのだ。「それは一つの半荘のレート(重み)が倍なだけではないか」? 違う。一つ目の半荘に負けたプレイヤーは、既に負けることになっている次の半荘を実際に行い、負けるのだ。
 尤も、一つ目の半荘に負けると次の半荘にも負ける、という具合に負け―負けとなる必要も実はない。負け―勝ちでもよい。というか、まあ麻雀は本当は四人で遣る(のが主流の)ゲームなので、4 位― 3 位とか、4 位― 2 位というのがあっても良い。無論、こういう順位の推移は連鎖するから、プレイヤー達は結果が決まっている幾つもの半荘を、粛々とこなしていくだけ、というのも有り得る。
 なんだ、ただの決定論ではないか。本当にそうかも知れない。『ムダヅモ無き改革』のあの一幕は、ただ我々が陥っている決定論的状況をややパースペクティヴを変えて描写したに過ぎないのかも知れない。なら、あの一幕で本当に度肝抜かれ、笑うべきなのは、「負けると体が焼け焦げる」という点なのかも知れない。