それにしても私は今まで、どれほどの物語を使い捨ててきたのだろうか。なにも、私たちがどれほどの、と言っているのではない。この私が、どれほどのと言っているのだ。

 勿論、この問いにきっかりとした回答を与えることが出来ると予見しているわけでもない。しかしながら、この問いは中々甲斐のあるものと思う。というのも、物語を作り捨てる者がいることを知っているからだ。もしも私が消費者であるならば私は物語を使い捨てるだろう(そしてその前件はきっと真だろう)。しかしながら私が制作者であるならば、私は物語を作り捨てていたかも知れない。そして、もしかしたら私も制作者なのかも知れない。なぜなら、私も物語を考えてみることがあるからだ。物語を考えてみるだけでは物語の制作者でないのかも知れないが、それは分からない。そうなのかも知れないが、今は判断できないし、これはきっと重要ではないだろう。物語を考えてみるだけでも物語の制作者であるのに十分であるということにしておく。

 たしかに、バベルの図書館のような名前の下で呼ばれている考えのように、有り得る物語が言語によって表現される以上、それは列挙することが出来るだろう。無論、その作品の文字数に制限をしないならば有り得る作品の数は無限になるから、その列挙が終わることはない。従って、ここでは問題とする作品の文字数を限り、本当は何だって良いのだが最近五十年の内に日本語で出版された作品の本文と呼べる範囲の文字列の文字数を取る。(改行文字も一文字と数える,とかなんとかという必要があるのかも知れないが、その辺に関しては適当に考えろ。)その下で、有り得る作品を考える。

 最近五十年の日本のことをどのような時代区分と呼ぶべきかは知らないが、ともあれこの「戦後日本の図書館」にある作品の数は、有限である。しかしながら、

 要するに文字列に対する解釈はどうせ無限にあるから文字列の方を固定してもどうせそんなつまんない話になるんです。(途中で飽きたパターン