これではわたくしの健康も風前の灯火状態ということだな!

 (19,29) まあそう言っても仕方がない。私は私に出来ることを。

 (19,39) くっそおおおおおお! こんな、こんなことで衝撃を受けるとはああああ! 不覚ッ! おれもまだ修行が足りない! この、愚か者めっ!

 (20,51) 今回はおれの負けだ! 好きにするがいい!

 (21,23) おれは今回のことで思ったね。ああそうだ。もうちょっとブログを書いていこう。いいのさ。最早自己承認のためじゃないのははっきりしている。心安いことをこぼしてただ人とダンスがしたいなら Twitter をやるさ。おれはね、今回ここ一年間ぐらいのこの『紫本』の記述を読み直して、ああ、いいなあと。自分がどんなゲームをやってどんな漫画を読んで、どんなトーンでどんなことを書いているのかを見て、おおなるほど、そういうこともありました、とおれは思うのだ。

 紫本を始めた当初は、自分の日本語の練習のつもりで書いていた部分があった。しかし、ああ分かった、結論に飛びつこう。まあ僕は日本語の文体は、大体もう習得したのだ。自分が大体満足できるような文体で、書くことが出来るようになった。ああ、それはよいことだ。なぜなら、私はそれによって私のことを私が表現したいように表現できるのだから。文体は神秘的な芸術だよ、君。どうして良いのだか分からないが、まあ要するに自分の文体は自分の体臭のようなものだ。長らくそれを使っているとああ、どうもこれがおれが文章共の集積体に挿入する切れっ端だとよく分かる。

 これからは、『紫本』を書き残すために書いても良いのではないか。これまでは、そうした理由からではなく、ただ何となく、書いていたような気がする。文体が出来上がったと思われてからこれまで、そうではなかったか。これからは、他人とのコミュニケーションのためでもなく、自分の文章練習のためでもなく、かといって感想文を書くためでもなく、他の誰かの役に立つためでもなく、将来のおれが読んで楽しくなるために、書いても良いのではないか。ああ、それではオフラインで書いてもいいでしょうよ、という声が聞こえる。どこから聞こえるというのか。無論この私の胸の内から聞こえるのだ。決してコメント欄からではない――たしかにコメント欄はオープンであるけれどもども。

 いいんだよ。『紫本』は人に読ませる為の日記帖さ。まるで明白じゃないか。ネタの問題さ。たしかに僕はオフラインの日記帖を持っている。書いているさ。そして文体も同じだ。しかし、ネタがちげーんだよわなあ。おれは、長いブロガー生活によってネタ無しでもエントリーが書けるというまるで要らない技術を手に入れるに至った。そうなんだなあ。

 いいんだよ。ここは広いインターネットだ。