真理とか知識とか言っているわけだが(ものすごく長くなりました)

このトピックは、何人かおれにこういうことを考えさせることを言ってきた人のその言葉に刺激されて書かれていますので、その人たちにとっては以下の文言は反論になっている気がします*1。このことは書いておいた方がいいでしょう。で、以下のことについて再反論してくれても構いませんが、それをコメント欄でやるかメールでやるか直に会ってやるかは、選んで下さい。

  • あのな、おれは真理とか知識とかと言っているわけだが、それはなにも、感情の話をしているんじゃない。いや、確かにそういう問題を扱う場面もあるかも知れないが、それは今のところ問題にしていない。そりゃお前、同じ映画を見ても面白がる人とこき下ろす人がいるのであって、それを一刀両断式に「アレはつまらない映画だ」と言うことは出来ないでしょ。その辺はまだ、おれはふつーの常識的な立場に立っていましょう。そりゃお前、そこに絶対的な真理とかというものは多分ないよ。あるいは、今はその問題には立ち入らない。とりあえずこのように言って排除しておく問題は、便利のためにラベリングしておくと、「感情に関する合意の問題」だと思う。
  • そうじゃなくて、おれが問題にしたいのは、もっと、言い争う余地のある事柄に関してだ。あそこに赤い花がありますよね、と言ったとするでしょう。で、おれの隣にいる人が「いやー、ないと思うけどナー」と言ったとするでしょう。そこで、それを見ていた人が「や、それって個々人の趣味の問題じゃん?」と言ったとしたら、それはおかしな話だと思うわけだよ。そこに花があるかどうかは、まさしくあるかないかの問題であって、個々人によって違うよ、ということを言うならば、それはかなり問題がある発言だよな。おれとしてはそんな強い観念論者とはお話ししたくない。
  • そりゃあたしかに、この本は面白かったぜとか、いやああそこの飯はまずかったよとか、そういうのは趣味のせいだということで不問にしてもいいかも知れん。だがよ、部屋に鍵がかかっているかとか、灯りが点いているかとか、そういうことは、そうであるかそうでないかしかないんじゃなかろうか。それは、個々人の趣味によって変わってくるもんでは決してないだろう。
  • まあ、問題は、そういう風に「趣味の問題」として片付けられる物事の範囲はどれくらいなのかということになるだろう。ちゃんと言うと、どこまで真偽を問えるかということになるだろう。何事に関しても真偽を問うことは出来ないと言う人に対しては、ああそうですかということはあなたはあなたがそこにいるということもあなたがそう言ったこともまたそう言ったことの内容に関しても、真偽は問えないというわけですか、ではあなたの喋ったことは無視しても構いませんよね、とまあそういう風なことになるだろう。どこかしら、問えるレベルと問えないレベルを分けるボーダーがあるんじゃなかろうか。多分あるだろう。少なくとも、目の前にものが在るかどうかと言うことは問えて、感情に関しては問えない。そんな風なことを上に書いてきた。
  • でね? 以前以前、おれが大塚愛の「プラネタリウム」がいいんですようとかと言ったらですね、集中砲火ですよ。ありゃあパクリだから、ダメなんですようとか。いや待てと。パクリが経済的にまずいことは知ってるよ? そういうのが横行すると偽物ばかりが溢れかえってオリジナルが売れなくなるだろとか、そういう理論立てなわけでしょ? おれはそれは重々承知で、それでも、その曲調はいいなあと言ってるわけなのだよ。それこそ趣味の領域なんじゃないのかと。それがいいか悪いかは趣味に任せていいんじゃないのかと。そういうわけなのですよ。多分アレだ、その曲への評価と、その曲を高く評価することへの評価とが、混在してしまっていたんじゃないのか。多分そういうことなんじゃないのか。前者は趣味の問題で、後者は、社会的・経済的・倫理的な問題だったんだろう。
  • まあおれも後者の立論の確かさには納得するわけだ。そりゃお前、オリジナルが売れなくなったらパイオニア(創造的創造者?)がいなくなって、その業界は力を失うわけでしょう。それはいけないでしょう。それは悪いことでしょう。だから、そこには善悪を問えるでしょう。だから多分、「それはいけないことなんだ」という主張には真偽が問えるでしょう。そういうわけで、真偽の領域の話に戻ると、「観察にかからない領域」においても真偽は問いうるというわけだよな。どうよ。その辺。
  • で、これというのは、「観察にかからない」ものであったけれども、価値の問題だったわけだ。価値については真偽を問いうると。人の感情以上のレベルでの価値については真偽を問いうると、そういうわけだった。今度は存在の話ですよ。「観察にかからない」存在の話な。あれよ? 電子とか重力とか、ブラックホールとか、今日の時点で出された明日の天気予報での降水確率とかの話ですよ? そういうものについて真偽が問いうるのか。そういう話です。「今日の時点で出された明日の天気予報での降水確率」って、ねえ、観察できないですよねえ。明日の話なんだからね? そりゃ当然出来ないわけですよ。今観察しろって言ってるわけですよ。明日の天気を。しかも確率であって、降っているか降っていないかではない。雨は目に見えても、確率は目に見えないでしょ。ほらそこ、「感じるんだ!」とか言わない。で、はい。そういうものについては、真偽問えるのか問えないのかという話ですよ。
  • まあ、普通はそれは問いうると言うわけですよ。そういうものがどうであるか。うん。それはそうであるかそうでないかのどちらかですよねとか、まあそう答えるわけですよ。そこが係争点ですよ。ここで思いっきり「それに関しては真偽は問えないんだぜ!」と来るのがおれが採用したい立場なわけだ。この立場を擁護することが、今のおれのブームというか、スタンダードというか、こだわってみたいところなわけだよ。
  • よし。大体書いたな。
  • あーあとな、こんな話をしたんですよ。この前。「あなたは真理に興味があるとか言ってるけど、「真理」の定義が分からないからどうしようもないよ」のようなことを言われたわけですよ。うん。あのな。それは多分当たらないと思うわけだよ。あ、あの、ここからは結構私信めいてくるけれどもあくまでも閲覧者全員に対して言っているのでそこんとこよろしくな。
  • まず、「真理」という言葉の意味ぐらいあなたも分かってんじゃねえのかということを思いますよね。言葉に出来ないだけであって、何を言われているのかは分かると思うわけだよ。だって、「正義」とか「国家」とか、正 確 な 定義を知らなくても論じられるでしょう。あるいは、「富士山」なんて、どこからが「富士山」なのか、曖昧でしょう。それでも「富士山」と言われればあああれね、となる。なるよなあ。もしも「富士山とか、定義が分かんねえから話に混じれねえよ」となったら、それは変なことだろう。だから、定義が分からないことは、話を忌避することの理由にならない。
  • むしろですね、定義が分からないから争っているわけだよ。だから、そこで「うんそれはあなたの定義だよね。みんな別々の考え方があるから、争ってもしょうがないよね」ということになると、まったくやっていることが違ってくる。むしろな、おれとしてはみんなが納得できる定義を求めたくて頑張っているわけよ。みんなの考えが異なっていることは知っている。で、それを何とかするためにああでもないこうでもないとやっているはずだったんじゃないのか。むしろ、定義が分からないからその定義を求めているわけだよ。というわけで、みんなの考えが異なっていることは話を忌避することの理由にならない。
  • 次。でね、実はね、「おら、じゃあてめえの定義案を出してみろや! 聞いてばっかじゃなくてよ!」ということならですね、一応言えるわけだよ。「知識」ってのは、「正当化された正しい思いなし」のことであって、「真理」とか「正」ってのは、「物事の描写がその通りであること」(「雪が白い」というのが正しいのは雪が実際に白いときであって、そのときだけに限るわけだよな)じゃなかろうかと。で、そういうような定義がだな、一旦みんなに納得されたとしてだ。まあそのみんなの間での納得を取り付けるのにも苦労しそうであるけれどもだ、ともかくも一旦「ああそうかも知れんねえ」となったとしてだ。
  • 問題はその次ですよ。言葉の定義とか意味とかが分かったとしても、じゃあ一体どういう風にしてそれを確かめればいいのかということだよ。雪が白いのをどうやって確認すんのかと。”言われた文句が実際にその通りである”というのはどうやって確認すんのか。「定義」ではなくて「基準」の問題ですよ。まあね、雪ならまあいいですよ。見りゃいいから。見れば、赤いか黒いか白いか黄色いかは大体分かるでしょう。ちょっとぐらい黒ずんでても大体白けりゃ「うん白いね」とか「いやあちょっとこれは白とは呼べないなあ」とか、そういう争いになるでしょう。だが、「おいおい、おれ、「正義」が目に見えないんだけど」とか、「大塚愛の「プラネタリウム」が社会的に悪であるかどうかが、おれの目には見えないんだけど」とか、まあ観察できないわけですよ。「書かれたものについては書き手の意図がどうであるかは問題ではなくてその読み手がどう読むかが問題なんだよ!」と言ってもですね、「え、あはい、で、それってどう確認したらいいんですか」と。
  • すると、もしかしたら「真理」という言葉の意味(さっきの「定義」)が間違っていたのかも知れない。それが「正しい」と出来るような「基準」を完備していないような意味付け(「定義」)は、失敗していたんじゃなかろうか、とまあ、そういう風に出だしでの失敗を疑うのも一つの議論の進め方ではあるかも知れないけれども、ですな、案外、そのままの「定義」のままでちゃんとすべての問題に対処できる「基準」を見つけ出すことが出来る。のだ。というか出来るかも知れない。というか、出来るとスタート地点に戻らなくていいから気分がいい。要するに二つの方法があるわけだ。定義のレベルまで戻ってやり直して、基準を見つける。あるいはこのままの定義で行って、うまい基準を見つけると。で、実はさっき挙げた「定義」というのは昔の学者たちがすっげえ頑張って見つけてきた定義なので、案外信用していいんじゃねえかというわけなのだよ。まあここんとこは単なる思いこみかも知れんけれどもだ。
  • ところで、確かにですね、「定義」っつったら、言葉の意味以上に、「どういうものが「真理」に値するのか」という基準までも含んでいるんじゃねえのかと、「基準」を含んでなかったら「定義」として不十分でしょうが、と、まあこういう風な考え方もあるのは知っていてですね、うんそれはですな、じゃああれです、まずおれが初めに「定義」と言ったのは「意味合い」という程度なわけなんだと。まあそれはあなたが求めていた「(基準込みの)定義」じゃなかったわけなのでおれの不手際だけれども(まあそれならそうと言って欲しいもんだけれども)、だなあ、それならそれで、その「(基準込みの)定義」を一緒に探そうぜ、というわけなんだよ。みんなが納得いくようなそういう定義をだ。
  • で。そうするとですね、こんなことを言われるわけですよ。「いやね? みんなが納得いく定義といいますけれどもね? そんなことってあるんですかねえ。それはちっと難しいんじゃねえのお?」あ、はい。それはちっと難しい気がしているのはおれもその通りなんだけれどもですね、「だから」と言って「だからそんな定義なんかはないんだからそんな無駄なことは止めにした方がいいんじゃねえの?」と来るのは、ちと違うだろう。おれとしてはこれを奴隷制の例を出して反抗したいわけですよ。古代では奴隷制なんか当たり前だったわけなんだが、歴史のある時点でそれはまあ止めた方がいいんじゃねえのかと、そういうことになった。その結果、現代人は、常識として奴隷制はまずいぜと思ってるんじゃなかろうか。というわけだからだなあ、結構常識は変わるんだと、そのように言いたいわけですよ。そりゃたしかに現代でも奴隷制を復活させようと思っている人がいるかも知れんけれども、というかそういう風に思う自由は憲法によっても保障されているけれども、そんなことは常識では擁護されない。というわけでですね、多分、みんなに納得のいく(基準込みの)定義を模索することは無駄じゃなかろう。ちゃんと言うとうまく行くかも知れない。
  • で次にはこういうことを言われるんだろう。というか言われた。「それをしていいことがあるか」と。じゃなにかい、奴隷制があった方がよかったというわけなのかい。とまあおれはこういう風に言ってみよう。そうすると、「いやお前、真理の(基準付き)定義なんかが共通理解されてもいいことあるのかってことですよ」と言われるだろう。まあそれはそれよ、あんた、真理とか、正義とかってことは、むしろ何かの役に立つものなんじゃなくて、何かに役立たれているもんなんじゃないの。奴隷制がなくなる、ということは「正義に資する」ことなわけでしょ? むしろ「正義」の方は役立たれているわけでさ、ここからはまだおれも考えている途中だけれども、「正義」というものはこれこれこういうものだから「奴隷制」はまずいよな、という構図なわけでしょう。「正義」のためには「奴隷制」を止める方がいいぜと。「正義」についての常識がいつだか変わって、ああ「奴隷制止めましょう」と(まー大統領も言ってるしねー)、そういうわけなんでしょう。何かに役立つものをあれこれするのもいいけれど、そういったものが役立つ先のものをあれこれするのが、なんで悪いことなのかと。これもまたそれはそれで一つの問題かも知れんけれども、何かに役立たれているもの、というのはほら、生活とか人生とかに実によく関わっていると思うわけだよ。多分、生活とかの根幹をなしていてだな、それが変わるとがらっとものの見方が変わると思うわけだよ。だから、そういうものを考えるのは大事なことだと思うわけなんだが、まあその辺どうなのかと、これもまだ問題であることは真摯に認めておこー。

*1:複数人に対してまとめて答えるものであり、またそのすべての人がここを見ているとはまったく限りません。