メタゲームとオブジェクトゲーム

  • 分からん、分からんなあ。「ドイツゲーム」と呼ばれるような、ああいったゲームではいけないと思っている。あれでは、運の要素が足りないと思っているのかも知れない。或いは、理詰めの部分が大きすぎると思っているのかも知れない。まあ、それはおれが理詰めに弱いという自覚を持っているからだろうが、ともかく、それではどういうゲームが(おれの)好みなのか。将棋や囲碁は駄目だと言った。何故と言って、完璧に理詰めだから。おれは理詰めに弱いんだよ。ということだから、Magicや麻雀や花札が好きなのだろう。それでは、シミュレーションゲームは、一体どうなんだ。
  • 将棋だってシミュレーションゲームだ、と言うことが出来る。出来るが、まあWikipediaにも書かれていたけれど、将棋は実に抽象的(アブストラクト)であって、あれらの駒は全然武将的じゃない。だから要するに、シミュレーション的かということはここではゲームの区分を論じる上では有効でないのだろう。では、一体どういうことなんだ。
  • 一体ゲームの何が快いのだろう。というかおれはどういうゲームが好きなのか。ああそれはやはり、麻雀とMagicと花札とに共通に、あの駒なんだろう。雀牌と、カードと、札。あれを手や指で操作する感じが重要なのかも知れない。それは、一体ゲームのどこに位置するのだろうか。それもゲーム性の中に位置する要件なのだろうか。位置しないのではないか。どういうことなんだ。
  • どういうことなんだろうか。
  • アブストラクトな部分とコンクリートな部分を分けて考えてみるか。将棋や囲碁は実にアブストラクトであって、別にあれらの駒や石が王将であったり白丸であったりする必要はない。というか、「王将」とか書かれているだけまだコンクリートな部分があるとしておこう。結局、駒や石を番号で表してもよいのだから、それ以上の装飾はコンクリートだと言うことにしよう。そして、アブストラクトな部分によって表現されているものを「ゲーム性」と呼ぶことにする。要するに、するとそれは、ルールのことになりそうだ。ルールに書かれている条項を実際に表現するとき、それは具体性を取ると言うことが出来るだろう。木の駒の代わりに実際の人間を使用する、というのはたまに漫画で見る「将棋」だ。それがまだ「将棋」なのはルールが変わっていないからだろう。
  • さてそれで、将棋に魅力を感じる人は、駒が実際の人間でなくて木で作られた五角形のものでも十分に楽しむことが出来ている。それはやはり、それだけにルールが興味深いからなのだろう。中学校の頃は紙の将棋が流行っていた。それでも将棋が好きな奴らはそれをやっていた。おれはしなかった。それは、結局のところ、ルールが気に入らないからだろう。
  • それでは、さて、どこがいけないのだろうか。一つには、完全に理詰めだということが挙げられそうだ。
  • どういうことなんだ? 
  • これはやっぱりあれか? 手札などの隠された情報があるかないかということが大きいんじゃないか? というか、おれは全ての情報が開示されているところで戦うと弱いから、そういうのが嫌いなんじゃないか? 
  • どうなのかな、或いはおれは勝敗を運に委ねたいのかも知れない。運によって勝敗が決まるならば諦めがつくから。手筋が問われれば問われる程、おれは手を指しづらくなっていく。というか、後悔が大きくなっていくから合理的な手を打とうする。だから、億劫なのだろう。
  • ところで、常にパーミッションを選択する人物に、メタゲームは存在するのだろうか*1。おそらく、常にパーミッションを選択するということは不合理な選択だろう。それは大方のメタゲームに敗北するだろうからだ(言い換えれば、幾つかのマッチには勝利してもそれは辛勝でしかなく、全体としては良い成績を残せないだろうということ)。だが、自分にはパーミッションを選択するしかなく他の選択肢はあってないようなものだと深く自覚している場合には、そうではないのではないだろうか。その場合には、メタレベルでの勝敗は運の支配する領域であり、たまたまにその大会では厳しいゲームを迫られ、また別な大会では偶然楽な勝負になるだろう。それでは、そのプレイヤーは何をゲームしているのだろうか。彼はきっと、飽くまで個々のマッチをゲームしているのだろう。それは、Magicをやっていると言えるのだろうか。或いは、Magicはメタゲームも含めてのゲームなのだろうか。確かに、コンスタントに好成績を残すにはメタゲームへの関与は避けられないだろう。Magic界の最新の動向を知らないではトッププレイヤーで居続けられない。これはどの種目でも言えるだろう。新しい手法が発見されたことを知らないでいるのは不勉強であり、それは努力が足りていない。
  • だがそれが勉強や努力に見えてくる辺りで、ゲームは魅力を失うだろう。それでは、どれぐらいの時間と思考(と、或いは金銭)を費やす気になるか、というのが一種の指標になるだろうか。ここで言っているのは、自分が持っている地力(地味)を、どれだけ意識的に育てる気になるか、ということだ。自分を強くしたいと思うのは、そのゲームが面白いからだ、とここでは簡単に考えることにする。おれは、将棋の駒の動かし方も知っているし(ルール把握)、棒銀とか穴熊ぐらいの戦法までなら知っている(知識・メタゲーム)。局面局面の最善の手筋を考えることにも興味はある(地力)。けれど、棒銀の防ぎ方も、防がれたときの対処法も、中盤以降の攻防の定石も、知る気になれない。おれはあまりにやる気がないために、一局を指し切ることすら出来ない。
  • やや混乱してきた。つまりどういうことなのか。
  • つまりはこういうことか? おれはメタゲームが存在しないゲームが好きなのかも知れない。もっと言えば、戦法が存在しないゲームが好きなのではないだろうか。全てが地力で決せられるようなゲームが。おれは、Magicでは常にパーミッションを選択し、メタゲームを放棄した(だからその代わり限定戦が好き)。将棋は、全てを地力でやるには複雑すぎたのではないか。
  • 麻雀には――、麻雀にはメタゲームが存在しない……か? 存在しないのではなかろうか。その場その場の最善手以外に、固定的な戦法が存在するのだろうか。或る戦法に対しては絶対的に優位な戦法というものがあるのだろうか。その辺は、どうなっているんだろうか。
  • とりあえず、「早仕掛け」や「門前維持」のような手法はあると言える。だが問題は、それが固定的な戦法であり、その選択が勝敗を左右するような決定的なメタゲームを為すか、ということだ。もし、常に早仕掛けを選択するとしたら、それはメタゲームを放棄している。何故ならそれは、逆に戦法を選択していないことになるから。それでは、手牌に応じて早仕掛けを挑むような手法はどうか。それもまた、メタゲームを為していない。何故ならば、それがその手牌に対しての最善手だと判断しているからだ。おそらく、「戦法」とはそのようなものではない。将棋の場合の「棒銀」は、自分が「棒銀」という戦法を採るかどうかは、ゲーム開始時の配置によらない。何故ならばその配置は常に一定だからだ。むしろそれは、その戦法を採用したときの勝率見込みによるだろう。自分の棒銀に絶対的な自信が有れば採用するだろうし、相手が棒銀を苦手としていると知っていても、採用するだろう。或いは、最新の棒銀の手筋を仕入れている場合にも採用すると思われる。何故ならば、相手が事情に通じていなければ自分が勝利するだろうから。これらの意味で、「棒銀」はメタゲーム的だと言えるだろう。即ち、どうやらメタゲームとは、対戦相手と向き合う・第一手を指す以前からの、「手法」の選択であるらしい。それでは「早仕掛け」や「門前維持」はどうだろうか。おそらく、「早仕掛け」がメタゲーム的である局面は、”トップで迎えたオーラス・千点条件”というのが典型的であるだろう。何故ならば、その条件の下では、配牌の以前に(こそ?)そのような手法を選択するだろうからだ。それは、ゲーム(南四局、東風戦の場合は東四局)が始まる前の戦法選択だ。そしてその戦法を選択するかどうかは、その半荘の勝敗を或る程度決定するだろう。しかし、この戦法は、同時にその条件下での最善手でもあるだろう。或いはそうだと認めるならば、それはメタゲーム的な戦法ではない。「半荘のトップを取る」ことを目的にするならばその条件下で「早仕掛け」をするのは最善手でしかなく、南三局(または東三局)を指し終えた時点で決定する「次の一手」だろう。その意味では、まだ「ゲームの中」にある(メタレベルに段階を許す)。おそらく、麻雀に於いて「メタゲーム」的であるのは、「次の局は必ず染め手(混一・清一)にする」という事前決定だろう。上では「もし、常に早仕掛けを選択するとしたら、それはメタゲームを放棄している。何故ならそれは、逆に戦法を選択していないことになるから」と書いたが、それは言い直す必要があるようだ。それは一つのメタゲームではあるだろう。また、常にパーミッションを選択していたというのも一つのメタゲームであった。けれど、それらはあまりに勝利から遠いがために、メタレベルでのゲームに敗北している。或いは、メタゲームに勝利することを目指していないのではないだろうか。
  • 次に問題になるのは、シューティングゲームにおけるメタゲーム(知識)の影響の有無だ。おれはメタゲームが要求されるゲームは嫌いであるはずだった。けれど、シューティングゲームにはメタゲームがあると思われる。これはどのように解決されるのだろうか。シューティングゲームにおけるメタゲームは、端的には「リプレイ」によって媒介・実現される。地力(自力)ではどうしてもクリアできない局面であっても、他人のお手本的なリプレイを見ることによって画期的な回避方法を知り、クリアできるようになることがある。「安全地帯」の情報は、その顕著な例であるだろう。或いは、敵機の配置や弾幕のパターンを知り、覚えることも、知識の蓄積として実際の自機運動に影響を与える。ゲーム開始直後、敵機の出現位置の近くに自機を移動させることは、一種の戦法であり、選択的なことであるだろう。
  • さて、おそらくそのようなシューティングゲームをおれが好きになったのは、そうしたメタゲームをオブジェクトゲーム(対象ゲーム)に適用する際に地味が必要になるからだろう。即ち、知識だけがあっても駄目で、シューティングに於いては、戦法の実現にテクニックが必要になるのであろう。そしてその際に、地力が要求されるのだろう。そこが、おれに自分の成長を感じさせるのではないだろうか。シューティングにおけるメタゲーム的な知識・戦法は、実際の運用と連動していると言えそうだ。また、シューティングに於いては、地力だけで挑むことが出来るという点にも触れておきたい。即ち、初見でのプレイでも、上手い人は上手い、ということがありうるということである*2。その一方で、その「地力」は、或る種の「解法」とも言うべき「戦法」を実践して獲得したものだとも言えるだろう。やや論旨は不明確になったが、シューティングゲームに於いては、メタゲームとオブジェクトゲームの連続性を指摘すればよいのだろう。多分。
  • 結局なんの話をしていたんだっけか。まあ要は、メタゲームが大きく関わってこないのが好きなんだなーっていうことなんだけど、Magicのカード性とか、麻雀の牌性とか、花札の札性とかが何故魅力的なのかを考えてないなー。じゃあ将棋の駒性はどうなのよ? っていうことになるから難しいに違いない。メタゲーム性の方は実際に考えてみる余地があったけれども。
  • それでは、今回の話をカテゴリーに入れておこう。ここで注意なのは、ここまで書いてからカテゴリーに入れようと思ったということだ、とメモしておこう。途中まではただのハイテンション日記だったからー。
  • ちゃんと言っておくと、麻雀などのゲームはメタゲームの比重が小さく、将棋などのゲームは大きい、といったことは内容的に真理性を主張するけれども、それ以外の、例えばだから麻雀の方が面白いんだよーといったことはそうではありません。まあ念のため。あとそれから、書きながら考えているという性格上、上の方と下の方と、或いは書いたあととで、それぞれ言葉の使い方が異なっている場合があります。ので、疑問に思ったら聞いてみてください。答えるかも知れません。いやきっと答えます。多分。

*1:Magicの話題。Magicの大会などでは、自分がどのような戦法を選択して望むかが重要になる。それは戦法同士の相性が個々のマッチでは決定的であるため。「パーミッション」は戦法の一つ。自分がどのタイプのプレイヤーと多く当たるかを事前の情報から割り出し、それを踏まえて自分の戦法を選択することを「メタゲーム」と呼ぶ。個々のマッチを超越して、マッチに臨む際の戦法を選択する時点から「ゲーム」が始まっているということを含意している。

*2:まあどうせ僕がやったことのあるシューティングなんて数は知れていますが。