ソクラテスと「インテリジェント・デザイン」説
- クセノポーンは、《クセノフォーン(著)、佐々木理(訳)『ソークラテースの思い出』isbn:4003360311》の第一巻四章に於いて、「インテリジェント・デザイン」説を思い起こさせるような(?)ソクラテスの問答を伝えている。なお、筆者は「インテリジェント・デザイン」説について何ごとかを言いたいわけではなく、またこの箇所がまさに「インテリジェント・デザイン」説を唱えているかどうかについても(ここでは)沈黙することにする。以下にその箇所を抜き出して引用するので、興味を持たれた諸賢は参照されたい*1。
- ソクラテスと、アリストデーモスが問答をしている。
「なんのために存在するのか知りがたい物と、あって役に立つことの明瞭な物とでは、君はどちらが偶然の産物で、どっちが目的の産物と判別するね。」
「そりゃ、役に立つためにできている物が目的の産物だと言えます。」
「それでは、はじめて人間を創り出した者が人間に五官を備えてくれたのは、何か役に立てるためであったと君は思わないかね。眼に写る物を見るように眼を与え、耳に入る物を聞くように耳を与えてないか。また匂いは、もし鼻がつけてなかったら我々になんの役に立ったろうか。甘い苦いをはじめ、あらゆる口の快味の感覚は、もし舌がその目的で造られてなかったら、どこにあり得たか。これらのほかに、なお深慮の産物と見えるものがありはせぬか。すなわち、眼はか弱いものであるから、瞼が扉をなし、眼を用いる用事の起るときは開き、眠っているときは閉ざされる。風があたって眼をいためることがないように、瞼には睫 が植えてある。頭から落ちる汗が害をしないように、目の上には眉が庇 を出している。耳はありとあらゆる声を受け入れながら、声でつまってしまうことがない。また前歯はありとあらゆる生き物において嚙み切る役をなし、奥歯は前歯から受けとって磨り砕くのである。そして生き物がなんでも好きな物を送りこむ口は、目と鼻の近くに置かれ、これに反して出て行く物は厭 わしいがゆえに、これの通る管は脇へそらして、できるだけ感官より遠のけてある。かく先をおもんぱかって行われているものが、偶然の産物であるか目的の産物であるか、疑う余地があるのか。」
「そりゃもちろんありません」と彼は言った、「そうした見方をすればこれらはいかにも、誰か賢明な慈愛深い創造者の仕事のように見えます。」*2