引っ越しの挨拶まわり

この項の内容を、最終的にどのように受けとり、どのように考えるかは、読者の皆さんの一人一人に任されています。と、このように明言しておきます。即ち、私は何ごとかを主張したいのではなく、興奮気味に、あったこととそれに関する雑感を書き留めておくのみなのです。少なくともこの項に関してはね。

  • おれがオデュッセイアを読みながら寝ていたところ、オートロックの玄関の、呼び鈴が聞こえた。ので、出てみた。ら、三〇一号室に引っ越してきた者で、挨拶がしたいということだった。おれは、オートロックの玄関のドアは、持っているはずの鍵で開くので、入ってきてください、と伝えた。引っ越してきたばかりなのでこの建物の構造をまだ知らないのかもしれず、これを機会にそれを知ってもらうのは有意義だと考えたからだ。
  • おれは寝ていたから寝間着姿だった。ので、着替えた。手早く。けれど、おれの住まいは一〇一号室なので、オートロックの玄関から近く、着替えが済む前に、ドアの呼び鈴が鳴った。それから少しして、おれはドアを開けた。
  • 現れたのは二人の若者だった。この春に引っ越してきたという。近所付き合いは大切にしていきたいという。あなたは何歳だろうか。――などという趣旨のことを言ってきた。おれは二十四だと答えた。この街には五年目だということも、聞かれたので答えた。向こうは二十九で、社会人だと言う。もう一人は、付き添いだと言った。
  • 引っ越してきた、という方の一人が、自分の体の陰から小冊子を取り出した。「それでですね」と言いながら。それはK党の選挙候補者の紹介の小冊子(二つ折り程度の冊子)であり、今度の二十八日(と言ったと思う)の選挙に出ると言う。ので、この候補者のことをよろしく、と言う。僕は、じゃあ、それをもらって考えておく、と言うと、いや、これは今一枚しかないのであげることが出来ないと言う。僕は、じゃあ、考えておきます、などと言った。
  • 二人とはそれで別れた。僕はドアの鍵を閉めて、ロックバー(チェーンの役割を持つ)を倒した。
  • 僕は、自分の部屋のドアの、覗き穴から二人の動向を見ることにした。二人は、オートロックの玄関を出て、建物自体の玄関の辺りにポスターらしきものを貼ったようだった。そのご、オートロックの玄関のインターホンに向かい、また別の人の部屋に行こうとしているようだった。オートロックの玄関のドアが開き、二人は階段を上っていった。
  • ここでおれは考える。いや、次のように考えていたから窃視を続けたようなものだ。二人はもしかして入居者などではなくて、単に草の根の選挙活動員なのではないか。引っ越してきたと偽り、ドアを開けてもらい、挨拶に行く。そうして、安心させたところで、候補者の写真を見せるのだ。実に悪道いやり口ではないか。
  • とは言え、おれがオートロックの玄関のインターホンの呼び鈴での際に答えたように、どうやら彼は鍵をちゃんと持ってもいるらしい。というのは、オートロックの玄関から、おれの部屋の玄関までの移動時間が、短かったからだ。鍵を持っていないならば、違う部屋の人にはインターホンで話しかけるか、建物の周りを廻らなければならないだろう。だから、恐らく鍵は持っているのだ。――だが、じゃあ、何故おれと会ったあとにオートロックの玄関の向こう側に出たのだ? それが解せない。
  • 折しも今日は東京都知事選挙の投票日に当たっていた。