「雀風」或いは麻雀での「打ち筋」に、優劣はある

さて、ここからは少々異なる問題を主に据えることになります。illegal さんは「打ち筋は各人の個性を表す用語で正解は存在しない」と言っていますが、この「正解」の意味合いに疑問があります。「どういった打ち筋(雀風)を採用するべきかという問題には、誰しもに通じる一般的な正解がない」という意味合いであれば、違和感を感じます。以下で詳しく言ってみます(例によってちゃんと詳しく言えるかは自信がありませんが)。


 恐らくこの問題に関しては、以前「メタゲーム」について考えたときに射程に納めていたと思います。即ち、あのときの見地から、少し言えることがあると思うのです。
 illegal さんが言っている「雀風」とは、次のようなものだと理解しました。例えば「メンゼン派」と呼ばれる雀風があり、それを採用する競技者は一般に、和了を目指すに当たって門前を維持しようとする傾向がある。他に「手役派」や「速攻派」などがあり、それらとは、和了を目指す際に重要視するものが異なる。「メンゼン派」は門前であることを重要視し、「手役派」は特に手役を完成させることを目指し(おれはよく知らんがね)、「速攻派」であれば例えば点数の高さよりも和了に要する時間の短さを重要視する。
 さて、これは配牌をする前から、競技者が個別に採用している立場、或いは無意識に備えている傾向だと思います。即ち、このとき競技者たちは一種のメタゲームをしているのだと思うわけです。配牌をして局を開始する前から、そうした雀風を持っている競技者たちは、互いに相性を発生させているという点で、ゲームを始めていると、ここでは言っておきます。
 そこで、雀風は、勿論それが実現して始めて「これがこの競技者の雀風である」と分かるのですから、雀風を持っている競技者は実際にその雀風の通りに競技をすると前提します。すると、競技者は、その自分が持っている雀風のために一般に利益を被ったり不利益を被ったりするのではないでしょうか。ここで、極端な場合を想定してみます。恐らく、illegal さんが挙げた「雀風」というものをそのままに理解する人は、どんなことがあっても門前を維持する打ち方をも、雀風と呼ぶことを許してくれると思います。この雀風をとりあえず「完全門前派」と呼ぶことにします。さて、ところで我々は「明らかに副露仕掛け向きの配牌」や、「明らかに早あがりすべき状況」というものを想定できるのではないでしょうか。もし想定できるならば、そうした配牌や状況が訪れる度に、一般に、「完全門前派」の人は不利益を被るでしょう。それは、そうした配牌や状況に逆らって、自分の雀風を尊重するからです――ここでは、雀風を持っている競技者はその雀風を尊重してその通りに競技するものだと前提しているのでした。もしもそうであるならば、競技者は、「完全門前派」などという雀風を採用すべきではないと言えないでしょうか。なぜならば、そうした、状況に対応しない打ち方は、不利益を呼ぶからです。それならば、少なくとも「完全門前派」に限っては、「採用しない方が正解」になるのではないでしょうか。即ち、誰しもに通じるような一般的な「正解」があると思うのです。
 たしかに、「完全門前派」などというものは極端な例ではあります。しかし、もっと融通の利く雀風に於いても、状況はさほど変わらないように思います。「完全門前派」を弱めて、「場合によっては門前を維持する派」というものを想定してみます(これがいわゆる「メンゼン派」であるかも知れません)。しかし、それではその「場合」とは何でしょうか。それは、「門前を維持すべき場合」であるに違いありません。「門前を維持すべきでない場合にも門前を維持する」という雀風は、先も見た通り、不利益を被ります。けれど、このように考えた段階で、既に雀風の選択に、善し悪しがある、「正解」があるということになってはいないでしょうか。
 違った角度からは、私が「完全門前派」が被るであろう不利益は不利益と呼ぶに値しない、という反論が思い浮かびます。「完全門前派」の競技者は「常に門前を維持する」ことに重きを置いているので、状況に対応できなくとも構わないのだ、という立場です。しかしその場合には、それであれば、その競技者は、競技に於ける勝利に優先して自分の好みを追求していることになります。なるほど、たしかにそうした人はいるかも知れません。どんなに副露すべき状況であっても自分の雀風を尊重し、門前を維持する競技者です。それならば、その競技者にとって勝利できないことは不利益ではないでしょう。けれど、そうした競技者に対して勝利を目指す「私」が言う言葉は「では負けて頂きます」ということでしかありません。そうした競技者にとっては競技をする目的が異なっているのですから、それはそれでよいことかも知れません。その競技者は自分の雀風の実現を目指し、「私」は勝つ。それは平和な解決であるように思われます。
 或いは、雀風とは常に実現されるものではない、と言われるかも知れません。雀風とは常に発揮されるものではなく、ときに実現され、ときに発動しないものだ。次にどのように打ったらよいか分からないときに自分の雀風を参照し、それに従うように打つ。その結果として不利益を被ったとしても、それは元から判断の付かない局面であったのだから、甘受してよい。と、このように考えるわけです。たしかそれであれば、そうした局面でどのように振る舞おうと自分の判断の結果ではないのですからその行為の善し悪しを問うのは誤っているかも知れません。ですが、それでは、そうしたときの「雀風」の発現とは、ただの欠点であり、ない方がよいものではないでしょうか。普段は打つべき様に打っているのだが、たまにどう打ったらよいか分からず、或る方針に従って打つ。そうであれば、そもそもそうした「どう打ったらよいか分からない」という状況を減らすべきではないでしょうか。自分がどのように打つべきか常に分かっている競技者であれば、それでは雀風は発現しません。そして、そちらの方がよいのではないでしょうか。それは、少なくとも、自分の判断から負けた場合には自分に責任を帰して反省できるが、「困ったときの雀風のために敗北した」のであれば、それは自分ではなく「雀風」に責任を帰しているからです。
 さて、それであれば、各競技者は、その時々の状況に応じて打つべき様に打つべきであり、「雀風」は無い方がよいか、有るとしてもそれらには優劣がある、ということになるのではないでしょうか。或いは、「打つべき様に打つ」という、状況に対して融通の利く打ち方を、選ぶべき(そして目指すべき)唯一の雀風として認めるべきでしょう。そしてその場合、それ以外の「雀風」――どのように打つべきか分からないときに従う方針――とは、欠点の種類(誤り方)に過ぎないのではないでしょうか。状況に依らない或る一定の方針に従っているときに得られる利益は、恐らく、打つべき打ち方が偶然その方針に合致した結果に過ぎないと思います。
 無論、「打つべき仕方」というものが常に一通りであるとは私も思っていません。公開されていない情報が麻雀にはあるのですから、有る一定程度までは次にするべき行動が決まったとしても、それ以上には絞り込めない、ということもあるでしょう。私は、それらの選択肢に含まれる打ち方であれば、どれを選択して実行してもよいと思います。
 さてこうしたことは、illegal さんの言った、「手順」ということから、短く整理することが出来ると思います。それは、麻雀には常に具体的な状況が付きまとうからです。illegal さんは、「手順に関しては一定の制限を設けることで正解を導き出せる」と言っています。これは今や、具体的な状況によって次に打つべき手がある程度決まってくる、と言い換えてもよいでしょう。上で私が考えたことと合わせれば、如何なる「雀風」を採用していても、現在がどういった状況なのかを考慮すれば「手順」には或る程度の善し悪しが生じる、というわけです。それであれば、「雀風を持つ」ということはそうした具体的状況を無視し・打つべき「手順」を無視することを意味するでしょう。「雀風」が各「手順」の連なりによって生成することを思い起こせば、そして「手順」に善し悪しが付きまとうことを思い起こせば、やはり「雀風」にも善し悪しがある(よい「雀風」とは状況に敏感に反応する打つべき「手順」を守る打ち方を意味する)、ということになるのではないでしょうか。


 と、このように私は「雀風」、或いは麻雀に於ける「打ち筋」は善し悪しを有するということを主張します。いかがでしょうか。