最近の、トワイライト

  • だめだろう。でもこれが許されるのが文芸の素晴らしいところなのだと勘違いしておこう。ぶんがくってすごいね! こんなのぶんがくじゃないよって言う人はこの作品がむき出しで社会に出てしまうことを許すことになるのでそれなりにフォローの議論を提出する必要があると思う。この作品が、何を隠れ蓑にして刊行されるのか。文学以上に都合の良い装置があるのか。エンターテインメントではいけない。だって、それは、余りにも、いけない趣味じゃないか。
  • でも、この作品の見るべき所はやはりそのギリギリ感だと思うので、文学作品という領域を何かそれらしく特徴付けたい人には嫌われ、いけないいけない趣味だけどでも見ちゃうよっていう微妙なあわいで受容されている。おれには。
  • このトワイライト感。覚えがある。きららだ。
  • なんで、読むのがつらい漫画も飛ばさずに読むのか。それは、もしかしたらもの凄いことが書かれているかも知れないからだ。いや、まず面白い作品も載っているんだ。名前を挙げることはしないけれど、確かに面白いものは載っていて、それは、読んでいて楽しい。これは間違いがないと思う。そして、面白くない作品も載っている。面白くない作品を読むのはつらく、作品ごとの登場人物の設定も中々覚えられないし、台詞を読むだけで精一杯になる。でも中には、これは面白いのではないか、と、印象としてポップアップしてくるものがあるのだ。では、それと、それ以外とを分けるメルクマールは何なのか。つまらないものをつまらないと言うのは簡単だが、ではつまらなくないものがつまらなくないのは何に存するのか。どのようなものを面白いと思い、どのようなものをそうでないと思うのか。それはしばしば明らかでない。だからこそ、トワイライトゾーンが必要なのだ。榊「CIRCLE さ〜くる」は、中々いいと思っている。それは多分、登場人物たちの人間関係の楽しそうな感じから来るのだと思う。それは大体分かっている。だが、日下さつき「ディアン先生の弟子」がいつも本の終わりの方に載っているのに気づくと不安になるのは何故なのだ。きらら系列(ぱれっと系列含む)の雑誌を一気に流し込んで読んでいるとき、他のそうした位置にある作品群とは違って、これがポップアップしてくるのは、何に因っているのだ。作画……? 話のテンポ……? 話題……? キャラクター……? 一体、何が違うのだ(具体的な回答は今は問題ではない)。
    • REX について。
  • REX は、おれが講読している唯一の少年漫画と呼んでいい雑誌……いやその、なんというか、ええと、トワイライト感の薄い雑誌であると思っている。REX に載っている漫画の多くは、その作品の何を見ればいいのか、或いは自分が読むとき何を楽しみに見ているのかがよく分かっている。もう言ってもいいと思うが、秋★枝を読むときには登場人物の下ぶくれ感ばかり見ている。つくりものじを読むときに糸目を楽しむように、秋★枝を読むときには下ぶくれ感に注目している。あの下ぶくれ感は素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい。だから、おれはカラー絵よりも白黒の線画の方を楽しみにしている。それらはよく分かっている。
  • 荒山徹のトワイライト感は、その面白さが何に存するかが分からない、という類のトワイライト感ではない。その作品が受け入れられるということが危険であるという意味でのトワイライト感だ。久米田康治の作品も、似ていると言っていいと思う。或いは木多康昭にも似ている。久米田や木多は、下ネタもやるし暴露ネタや皮肉も使う。だから、出版界のことを思って危険な作品だと思うのだし、そういう危険なことをしているところに魅力を覚えたりする。という風に思っている。荒山は、その圧倒的な朝鮮ネタが危険だ。韓流とか、嫌韓流とか、そうした趣向であれば分かりやすく、単なる好き嫌いで済むのかも知れない。韓国ものが好きで好きで仕方のない人や、嫌いで嫌いで仕方がないという人はいるだろう。そしてそういう人は、事ある毎にそれを例を挙げて言うだろう。荒山は、そうではないと思う。荒山は、韓国(朝鮮)が好きなのか。嫌いなのか。それは、結局のところ分からない。そりゃあどんな人に対してだって「本当のところ」など分かりはしないけれど、それでも何とかしてどちらかに分類して理解しようとするじゃないか。荒山は、そうではない。作家として、何度も何度も採り上げるのだから、きっと好きなのだろう。と考えてみよう。だがそうすると、劇中の扱いはあんまり過ぎはしないか。そして、では嫌いなのだとすれば、どうしてそんな作家が何度も何度もあのように作品を発表できるのか分からない。そうだ。だから、あのような作品が発表され続けているからにはきっと作者は朝鮮が好きなのだ。きっとそうに違いない。いや、そうじゃない。そもそも好きとか嫌いとかではなくて、そもそもああいう話は発表しちゃいけないんじゃないだろうか。そのようにも思う。そうして荒山の好悪に関する推測は宙に浮くのだ(このトワイライト感!)。そして、なんでそんな朝鮮をけなしたいんだか好き過ぎてたまらないんだか分からないような話を書くために、この人は漢文が書けるようになっちゃったんだろう。勉強したんだろうなあ。小説を書くために。だめだろう。もう少しいい方法があったんじゃないのか。だから、きっとこの人の本は刊行されなくてはいけなくて、でも、まともな本ではないんだ。久米田や木多よりもまずい本だ。だから、だから、この本はぶんがくでなくてはならないと感じるのだろう。ぶんがくなら、きっと許容してくれる。ぶんがくだっていうことにしておけば許される気がする。だって芸術だもん。たまには、毒々しいものだって……ある……。みたいな。たしかにこう考えることは文学を「その他のもの入れ」にするから、受け入れられない人もいるだろう。そうすると、ああ、可哀想に、ということになる。荒山は、どこにも行けない。この、トワイライト感! 結局、ぶんがくさんに妥協して貰うか、非常にいけない趣味の(いや、最早「書いちゃだめだろ」という領域に入っている)本ということになるかのどちらかしか、荒山の作品には行方がない。そして、その、どちらも容易には受け入れられない。こうして荒山徹の作品はトワイライトゾーンに入るのである。