読む順番と、ルドロジーの眼目

文献を読む順番

  • で、それで、今日の朝届いたものでルドロジー関連の文献は大体揃った(注文したがまだ届いていないものも含めて)ということにして、ここからは当分文献を増やすのではなく、それらを読むフェイズに入っていくことにする。ので、ここいらでそれらの読む順番を考える。
  • これまで手元に届いた文献自体やその情報をちらちら見た感じからすると、まあ、大体次のような感じだろうか。
  1. 生島淳『スポーツルールはなぜ不公平か』)
  2. 《守能信次『スポーツルールの論理』ISBN:9784469266382
  3. 《西村清和『哲学教科書シリーズ 現代アートの哲学』isbn:4782802021
  4. 《西村清和『遊びの現象学ISBN:4326152184
  5. ホイジンガホモ・ルーデンス』)
  6. (カイヨワ『遊びと人間』)
  7. 《ジャック・アンリオ(著)、佐藤信夫(訳)『遊び 遊ぶ主体の現象学へ』ISBN:9784560018606
  8. 《Katie Salen (eds.), and Eric Zimmerman (eds.), The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology, isbn:0262195364
  9. 《Katie Salen, and Eric Zimmerman, Rules of Play: Game Design Fundamentals, isbn:0262240459

「ルドロジー」という言葉と、おれにとってのルドロジーの眼目

  • さてここで、おれが「ルドロジー」と呼ばれる(呼ばれているらしい)分野の本を読んでいく理由を、特に自分に明らかになるように書いておこう。というのも、そうした動機のようなものを忘れるとなんでルドロジーを読んでいるのかがわけ分からなくなるだろうから。
  • ところで「ルドロジー」という言葉は実はあまり使われていないのではないか、というような懸念がある。例えば「ルドロジー」でぐぐると、この紫本を含む 34 件だけが出てくる。少ないだろ、これ。というわけなのだけれど、でもなんかねえ、「ゲーム学」とか「遊戯学」だと、我々がいつも使っているようなゲームに関わる概念とかの整理の話ではなくて、ゲームってこういう風に作ったらいいんじゃね、みたいな制作術の話とか、なんだかよく分からない話とかが入ってくるようなので、「ルドロジー」と言うことにしておこうということなんだな。まあ、「ゲーム学」とか「遊戯学」とかの方が、おれが興味を持っていることをより適切に指す言葉になっていくのだとしたら特別な躊躇いもなく乗り換えると思うのだけれども、まあ当分は「ルドロジー」でイクということで。西村清和は「遊戯論」を使っているんだけどさ*1、結局それもどれほど一般的なのか分からないし。まあ「遊戯論」の方が適切なのかなあどうなのかなあ。というところだな。あ、「ルドロジー」という言葉を使っている例はこれとかね。まあゆうても「ルドロジー」でぐぐっただけなんですけど。おれが初めてこの言葉を聞いたのは確か id:gginc さんの書き物でであったと思う。まあいいんだよ。まだまだこれからな分野だし。多分ね。
  • 名前の話が長くなってしまったので、次の話。まあなんにしても、こういう考察や研究は身近なものをよく理解するためや、身近な問題を解くためにあると思っていて(いまそんなきがします)、わざわざ一般的な話を経由するのもそうしたことをするためには抽象をした方が考えやすいから、だと思うのだけれど、まあその、ともかくおれにはよく理解したいものがあって、それをよく理解するためにこのルドロジーに絡んでいこう、というわけなんだな。で、それは、おれにとっては麻雀と Magic: the Gathering (略称としては「Magic」、或いは「マジック」を用いることにする)だ。ここでは麻雀とマジックを詳説することはしないけれど、まあともかく、次のようなことを考えたいと思っている。そのうちの幾つかは簡単に答えることが出来たり、よく考えたら問う価値のない問題であるかも知れないけれども、ルドロジーをやっていく動機にはなる。
  1. 麻雀とマジックには共通点があるような気がするけれど、(もし本当に共通点があるとしたら)それは何なのか。
  2. マジックはカードプールが入れ替わるということがあるが麻雀には殆どそういうことがないが、それでは麻雀でそういうことを行うということはどういうことなのか(何が起こるのか)。
  3. 麻雀で立直をしているときには競技者は何をしているのか(何もしていない気がするが、ではゲームすらしていないことになるのか、或いは何もしないということがゲームをしていることの一部になっているということはどういうことなのか)。
  4. マジックではカードプールが入れ替わることがあるわけだが、カードプールが入れ替わったら別のゲームになっているのではないか、それでも同じゲームなのだとしたら、その変更の前後で一貫してマジックであり続けているものは何なのか。(ゲームの同一性の問題か。)
  5. マジックではメタゲームが非常に重要なわけだが、麻雀にもそうしたものはあるのか、或いはメタゲームというものをどのように考えたらよいのか。それはカードゲームとしてのマジックと同じなのか、その一部なのか、異なるゲームなのか。
  6. マジックにはジャッジがおり、麻雀には通常ジャッジがいない(プレイヤーがジャッジを兼ねる)わけなのだが、プレイヤーがジャッジを兼ねるというのにはまだよく分からないことが含意されているような気がする。例えば、プレイヤーたちの合意によって裁定がなされるというのは、ルールが「厳格」ではないということなのか。そしてルールが「厳格」ではないゲームはゲームと呼べるのか、いや寧ろ、「厳格」ではないルールを有する「ゲーム」こそが「ゲーム」の名に値する、ということになったりするのか(子供の「ごっこ遊び」などを念頭に置いている)。或いは、そうしたルールの「厳格性」がそのゲームの「プロ化」と関わっているのではないか。実によく分からん。
  7. 麻雀には牌効率というものがあるわけだが、そういうものを突き詰めていったら人間が麻雀をやる意義はどこにあるのだろうか(勿論この疑問を出すに至るためには幾つもの前提が必要になっているのだけれど。まあその辺は非形式的に考えて貰ってですね。まあそんな話よ)。或いは将棋や囲碁のようなゲームではいつしかコンピューターの方が強くなってしまうと思うのだけれど、そうしたゲームをわざわざ人間がやる意義はどこにあるのだろうか。人間が楽しんでやり続けることの出来るゲームには、ランダム性が必要なのではないだろうか。(麻雀・マジックと、それ以外のゲームの対比。)
  • まあもうこの辺にしておくけれども、大体まあ、おれの興味はその辺にあるということだと思う。まあ、たしかにね、他にもアメリカ産のカードゲームであるマジックと国産のカードゲームに於ける、背景としてのファンタジー世界観の対比とかね、まあそういうのも面白そうだけれども、おいおいそういうことも追加できるということにして、まあ大体上に書いた辺りが興味のある問題ということにしておこう。何か忘れている気もするけど、それは思い出し次第書いてみるということで。
  • ここで一つ、自分は「ルール」というものを中心にした疑問を持っているのだ、ということを自覚しておこう。多分、上の問題を考えるに当たっては、ルールというものをよく考えないとならないように思う。だから、ルールについての考察は、最重要なポイントだろう。文献を読んでいてこの点に関する記述が現れたら、よく注意するようにしよう。
  • まあ、こんなものかなあ。
  • あ、そうそう。以前はプルートスの訳をこんな風に意気込んで(いや、ちょっと違ったかも知れないけれど)やった結果、いつの間にか「ああ、そんな話もあったね」ということになっていたので、まあその、今回はそんなことがないように気をつけるけれども、まあねえ、乗り越えられないものは色々とあるからねえ。社会とか体力とか。まあそういう類のものが。

*1:《西村清和『遊びの現象学ISBN:4326152184》351。