陽の光は見えない。結構なことだ

  • 最近は、紫本に畫かないフェイズであると思う。思い始めたのはまさに十分くらい前のことだが。
  • 僕には、文章を畫くところが複数あり、と言ってもその全てを見られるのはこの執筆者である僕だけであり、その内三つを見られる者は僕の他には一人だけである。と思う。多分。そしてそれ以外に、僕にしか見られない領域が多少あり、今は、そこで畫くフェイズであると思っている。だから紫本に多く畫かない。
  • 最近愈々不寛容さは高まっており、もうはてなブックマークコメントを読むのが辛くなってきた。はてなのトップページに「最新人気記事」には、醜聞紛いの記事が上がってくることがあり、ついついブックマークをしている人がどんな一行コメントを畫いているのかと思って読んでしまうのだが、到頭、読んでいて思わずぷっつんいきそうになってしまった。あれくらいの不見識を笑って看過ごせるくらいでないと、「情報化された社会」を生きるのは難しいだろう。
  • 本当は僕は議論なんか好きではないのだ、などと言ってみたいところだが、嫌いな議論というのは本当のところ、出来が悪いのに当事者が出来がよいと思っている類の議論だ。こういう風に思うことは実は昔々からのことで、今に始まったことではないのだが、ただ、最近はこうしたことを比較的畫いて表すようになってしまった。反省すべきだろうか? まあ、反省すべきなんだろうな。では、反省しておこう。それにしてもあとで懺悔するから悪行を為してもよいのです、と考える修道者は、どう間違っているんだろうか。
  • しかし、ブログが本当に面白くなるのはその畫き手が遠慮をしなくなってからだと思わないでもない。抑制の効いた、遠慮がちでスマートなブログに何の魅力があるだろうか。ましてや気の利いたライフハックを紹介するわけでもないのだから。ツイッターに畫くように詩をブログに畫く。本当にそういうのもよいのかも知れない。と言っても、詩を畫くのは時間が掛かるのであまりしたい類のことではないのだが。というかおれは早くダンセイニを読んで詩を畫きたいと願っているのだが中々叶わない。このことは、人為によって叶えられる類のものではないと思っておこうか? それも面白いことだ。詩は、人為を越えた何ものかによってあらしめられるというわけだ。実に神秘的で、詩に似合っている。
  • ニコニコ動画のランキングを見なくなったのは、時間がないから、という理由もあるけれど、「批判コメ」と呼ばれるものが嫌いだからでもある。批判コメと呼ばれているものが目に付くのも嫌であるし、また批判コメと呼ばれているものを「批判コメ」と呼ぶことも、またチャイルディッシュだ。
  • 矢張りまだおれには経験が足りていない。修行が足りていない。精進が足りていない。その程度の不見識に心を惑わされているようでは、いけない。人はもっと尊敬に値するもののはずだ。しかも一般的に言って。是非ともそうであって貰いたい。人は必ず何かしらについての専門家であって、それに従った尊敬を受けるべきだろう。人は万能ではないが、何かに秀でていると思いたい。ではそう思おう。この思いは不合理なのだろうか。一見した限りは不合理ではないと思う。各人が何の専門家であるかは分からないとしても、何かの専門家であるということが保証されているのであれば、そのことに由来する尊敬を受けるべきだろう。だから、私はそれなりの尊敬をすべきなのだ。良くは分からないが、何かの専門家に対する尊敬と同じものを、見知らぬ人たちに対しても持つべきなのだ。