マレフィスともつかない何か

 degree というのは述語の要求する引数の数のことだとか、まあそういうことも大事でして、知ってないとお話にならないので調べるのですが、ええ、大変ですねえ。しょうがないですねえ。
 それにしても今日はどうして土曜日なのだろう。私は何に驚いているのだろう。いつの間にか土曜日になっていることか。そうかも知れない。或る意味ではそうだろう。それにしても私の肉体は弱体化が進んでいて連続稼働に耐えなくなっており、だが一体どうすれば良いというのだろう。それにしても人は寝なければならず、いや、人のことなどどうでもいいのであって、ともかくおれは寝なければやっていけないので、寝るのだが、(そうだ、そういう一般化がいけない。逐一の人のことを確かめたわけでもないのに。などと急に慎ましやかな基準を採る当たりにいじけているのが分かる)寝るのだが、一向に私の身体が寝るのに飽きる気配が見られず、それでも仕方がないから私は私の身体が欲するままに、いやまあそんなに贅沢するなよと思いつつもそれなりの量の睡眠を呉れてやり、まあそれで誤魔化し誤魔化しやっているのであるが、さていい加減そういう生活に抱く疑問が重くなりすぎ、それにしてもなんで私は寝なければならないのかということを思うようになった。
 それにしてもいつでもこの時点が私にとってのみならず世界中の皆さんにとって「最新」の時点であるのだ、という思いを子供の頃に持った。それにしても私が言う「子供の頃に」というのはいつから有意味になったのだろう。矢張り、私に分かる範囲の時間分しか、この世はないのではないかなあ、などと思ってみよう。今ならばこの考えにそれなりの定式化と、正当化を与えることが出来るのだろうか。出来るのかも知れない。しかしそれは魅力のあることなのだろうか。分からない。私は今は懐疑的だ。
 私が驚いているのは、こんにちでも太陽が飽きることなく昇りつづけているという事実にだ。太陽が疲れてしまって、ちょっと今日の所はおやすみなのですっつって、ボイコットをして日が昇らずに終わってしまう日というのは、多分無かった。私の記憶の範囲では。私の範囲に於いては、私は二十四時間以上に亘って目覚めずにいたことがないから、私の記憶の範囲に於いてそういう太陽の休息日がなかったのならば、私が知性を持っていた時期に於いてはそういう太陽の休息日はなかったのだと言っていいだろう。(それにしても「日が昇らずに終わってしまう日」というのは、何を以て終わるのだろう? その日は日没によって「終わる」ことは出来なかった。なぜなら、昇らない太陽は沈むことが出来ないからだ。恐らく、私の知らない所で誰かが二十四時間を測ることによってその日の終わりを決めたのであろう。)それにしても私たちの活動は太陽の動きによって縛られすぎているのではないだろうか。いや、私の活動は、だ。またいけない一般化をした。いや、太陽の動きによって縛られていたっていいのだ。いけないのは、私の知らない所で太陽がいつの間にか動いているということだ。誰が太陽に動いて良いと許可したのか。私は許可していない。そして私はそもそも、太陽の動きによって時間の進みを決めるとか、時間の進みを測るとかということに同意した覚えはない。同意した覚えがないのだから私は同意したことがないと言うべきだ。私は同意したことがない。何と腹立たしいことだろう。私は私の許可無く時間が進むことを許可した覚えがない。私は私の許可無く時間が進むことを許可したことがない。(のにそうなっている! 許せない!)なぜ私はそんな時間の進み方に従わねばならないのか! なぜ時間は私の許可無く進むのか! いや、気付いているのだ。実は気付いている。時間は流れてなどいない。人が私に活動を要請するから時間が流れているように思うのだ。いや、流れていると思う時間は、所詮、人が人に活動を要請したり人の活動を抑制したりするが故に在るように思われるに過ぎないのだ。時間など無かった。太陽は、きっと、私以外の誰かが監視しているから動けるのだ。そうして、私以外の誰か達が、私を含めその誰か達相互のあいだで、太陽がこれこれするまでにこれこれのことをしましょうと、そのように取り決めをしており、それが、そしてそれだけが私の活動に要請と抑制を行うが故に、私の活動に要請と抑制が課せられるのだ。そうして、私がそうした要請と抑制に従っている故に、私は時間に縛られているのだ。私が、人々の言うことに従っているというのは確かだ。それは、私の考えに於いては、太陽が私の許可無く動いているということよりも確かなことだ。太陽が私の部屋の遮光カーテンの向こう側で、私がこうして文章を書いているときにも休むことなく運行しているというのは、全く以て疑わしいことだ。それに引き替え、私がこうして文章を書いているのは終えた事柄と、次にしなければならない事柄との合間の休息の時間にだ、ということは非常にはっきりしている。私はこちらを確実と思う。私がこんなにも太陽に動いて欲しくないと思っているのに動いているんだろうなあと思われるのは、太陽の下に誰かが居て、その人にとってはきっと太陽は動いているのだろうと、この遮光カーテンのこちら側でも想像されるが故(おっと、そうしてそういう人たちがまさに私の活動に要請と抑制を課す人たちであるということも大事)だ。それが、こんなにも時間に止まって欲しがっているのに時間が進み続ける所以である。きっとそうなのだ。だから私は時間が進むことを許さねばならないのだろう。私は他の人からの要請と抑制を受け入れるのだから。それが、私たちがやっていく仕方なのだ。
 これで、私が昔々に思った疑問、というか、希望がなぜ叶えられないかが納得できたのだろうか。それはそうなのかも知れない。それでも、私は困っているのだけれども、そこんところはどうなのだろう。私は、他の人の定めてくる私の活動への要請と抑制を受け入れ、また他の人の活動に対して要請と抑制を行っている(そしてそれらはちゃんと受理されているように見える)のだから、その結果生じた、この、自由に出来る時間の少なさというものには甘んじるべきなのだろうか。……それはそうなのかも知れない。とりあえず今の所ではそれには抵抗できないように思われる。何しろ、自分が同意したことなのだから。この時間の足り無さは自業自得の結果する所なのか? そうなのかも知れない。よく分からない。本当にそうなのかも知れないが、今の所、どこか疑えないか、探したく感じる。