「よい子の英語」

 ちょっと思ったのだが、「よい子の英語」等と言われるように、英語の例文には常識的とされる倫理観を反映したものが多いように思われるが、それにはそれなりの理由があるのではないだろうか *1。即ち、常識的とされる倫理観によく合った例文の方が、問題となっている単語の意味を誤解せずに済む、というメリットがあるのではないか。例えば、次のような例をついさっき見たのだが、これは、ちょっと困るのではないか。

bratty
【形】こまっしゃくれた、やんちゃの、行儀の悪い
・A child, regardless of how bratty it is, must be treated like a child. : 子どもというのは、どんなにこまっしゃくれた子でも、子ども扱いしないといけない。
*2

実際そうなのだが、私には、常識的にはどんなこまっしゃくれた子であれ子供は子供扱いしなければならないのかどうか、分からないとしよう。ここで、bratty を辞書で引くような人は、当然 bratty の意味を知らない。ここで更に、私が「こまっしゃくれた」というのがどういうことか、いまいち分かっていないとしたら、「やんちゃの」とか「行儀の悪い」という代わりの日本語で理解することになるわけだが、では果たして、どれくらいのやんちゃさ度合いでやんちゃであることを意味しているのか。どれくらいの行儀の悪さで行儀が悪いことを意味しているのか。「どんなに行儀の悪い子であれ、子供は子供扱いしなければならない」は、「行儀が悪い」で意味しうる行儀の悪さが一定以上であれば、偽になると思う。我々は、bratty がどの程度の行儀の悪さで行儀が悪いことを意味しているのかを知る為に、例文が示している(若しくは反映している)倫理観を使用するのだと思う。我々は、「どんなに行儀の悪い子であれ、子供は子供扱いしなければならない」が真になるのはどんな状況だろうか、と想像して、bratty の意味を把握するのだと思う。(ちなみに、「子供扱いする」というのは「子供扱いしてその行いを許す、大目に見る」ということだと思う。)こういう風に、例文の理解には、常識的とされる倫理観も使用されると思う。

*1:Q. 「よい子の英語」なんて、誰が言っていたんですか? A. 高校の頃の英語の先生の一人です。

*2:http://eow.alc.co.jp/search?q=bratty