魔術や哲学に関する文献研究という方法について

  • とは言いながら、それでも魔術に関して何事かをするための方法論については、難があるということを指摘しなければならない。これもまた、余り整理できてはないのだが、書きながら考えることにする。
  • Nox Occultaは各人が魔術に関する「研究」をし、それを発表する、という形式を取っている。だが、そこで言っている「研究」とはどのような方法を採れば出来るのだろうか。それが分からない。
  • 一つには、たた(id:tata2)が採るような、文献研究、、、、という方法があるだろう。これは、彼本人は「まだまだこんなものじゃない」という風に言っていたと思うが、自分が考察の対象とする魔術的な現象・領域の文献を見る方法のことを指している。
  • ところがこれは、おれはこの方法をやりなれていない。というか、多分やったことがない。
  • よく分からんが、多分こういうことだ。何かについて言うには、その「何か」がなくてはならない。例えば、おれは哲学専修の卒業論文で哲学の中の一現象として「責任」を扱ったが*1、そうした論考をするためには、実際にその「責任」というものが問われているような事態がなくてはならない。しかし、当該の「魔術」という研究領域に関してはそうではない。何しろ私は(鉤括弧を伴わない)魔術というものに出会ったことが多分ないからだ。このことは少し、この「紫本」に書いた。美学に関しそのように言った。
  • さてしかし、文献研究という方法を採る限り、それは可能だと思ってみよう。というのも、文献研究では、何がその文献でどう扱われているか、ということが主題であるから。――主題が移っている? それならば多分それはおかしい。多分、「文献を」研究することと、「文献で」研究することを分けなければならないのだろう。前者(第一の「文献研究」)は、『金枝篇』を例にして言えば、『金枝篇』を読むことで、『金枝篇』に引用されている様々な「魔術的(『金枝篇』内では「呪術的」*2)」とされる現象に接近することを旨とするだろう。というのも、日常生活では決して触れることの出来ない「魔術的現象」がそこでは陳列され、描写されるのだから。それだから、文献を読むことで読者(研究者)は研究対象たる当該の現象を得ることが出来る。そしてそれを元にして、本来の研究を始めることが出来ることになろう。即ち、その場合、その文献に書いてある内容・事実が、主題なのだ。ところで後者(第二の「文献研究」)は、そうした現象の、その文献内での扱いが主題となっている。そのような研究が可能なのは、読者(研究者)がその文献でそのようにでも扱われている現象を既に見知っているからに違いない。
  • 哲学(「責任」)の例で言うことにしてみると、多分こういうことだ。私たちは、普通、その哲学で扱うような現象(「責任」)を見知っている。「責任」と言われれば、あああれね、と思い当たる。それだから、「責任」を扱っている哲学の文献を読むということは、その現象について既に考えたことのある論者の論考を読むことであり、そうした他人の考えを元にして自分も考えるという研究方法だろう。だから、この場合(第二の「文献研究」の場合)、その論者と読者(研究者)が共に、そこで問題とされている現象を見知っているということが前提となる。そしてそのときにのみ、読者はそこで問題とされている現象を自分で考えることが出来るようになる(勿論その文献の論者の考えを踏まえてではあるが)。恐らくもっぱら、哲学はこの第二の文献研究という方法を採っていると思われる*3
  • さあ混乱してきた。どういうことなのか。
  • おれは魔術に出会ったことがない。そのときには、「魔術」というものを説明している文献を見ても、その論者の考えが正しいのか否かが判断できない。ベテルギウス星に生息する多頭型軟体動物の夢判断についての論考と同じぐらい、その論考の真理性が判断できない。これは第二の文献研究の方法を採っているからだ。さて、けれど、その論者がベテルギウス星の多頭型軟体動物についてどのように言っているかは、分かる。というかそれは多分すぐ分かる。
  • だから、第一の文献研究はその内容に対する事前の知識がなくとも出来るが、第二はそうではない。のだろう。第二の文献研究が「文献で」研究するものである、というのは、そこで読まれている文献は飽くまでも自分でその現象を考えるための手助けでしかなく、研究の対象となっている現象は既に見知っているからだ。飽くまでも、不明で、疑問に思っている、問題含みの現象(例えば「責任」)があって、それを解明したいとは思うが自分ではよく考えられない――というときに、先行研究を見るわけだ。その一方で、第一の文献研究は、「魔術」や「ベテルギウス多頭型軟体動物」が何という、、、、論者によってどのように、、、、、言われているかが主たる興味であって、むしろそうした論者達の見解によって、そうした現象を見知ってゆくことになる。
  • というわけで、始めにおれが言った、おれのやったことのない「文献研究」というのは、第一の意味での文献研究だった。だから当惑してしまった。少々、読書論めかしたことを言えば、自分の考えを持たずに、様々な論者の言い分を聞いていくのは退屈極まりないことだった。多少見知ってはいるが詳しくは知らない、或いは曖昧な偏見しか持たない現象について、分明に論者達が論じてくれるから哲学書は楽しい(スリルがある)のであって誠に臨場感がある。なにしろ自分が関わっている問題なのであるから――、まあ哲学のことはいいということにしよう。*4
  • さてともかくも、Nox Occultaだ。あれはどうしたらよかったのだろうか。おれには一つのアイデアがあった。そしてこれは、当該のレジュメには書くことの出来なかった、アイデアだ。
  • 実は私は魔術に出会ったことがないわけではない。実は、私にとっては『金枝篇』の存在そのものが、魔術的な現象だった。だが、これこそが大いなる困難なのだが、Noxの他のメンバーにとっては全くそうではなかった。ということが発覚してしまった。彼らにとって『金枝篇』は、紛うことなく文化人類学の研究文献であり、おれにとって『金枝篇』が正統な文化人類学の研究文献であるということが奇異であるのと同じくらい、彼らにとって『金枝篇』が魔導書(禁断の書物)であるというのは奇異であっただろう。久し振りに思いっきり先入観ばりばりな物言いをしてしまったことになったわけだ。勿論、多少は、『金枝篇』を正統な学術文献として扱う文脈も考慮してはおいたが、あの程度では全然駄目だった。というか、逆におれの立場の方がマイナーだった。ちょっと殆ど、信じられない事態だった。
  • ともかく、私の企みはこうだった。私にとっての数少ない魔術的現象である『金枝篇』の実物に触り、そこから魔術というものの本性を探れないか。『金枝篇』を魔術というものの現象たらしめている「魔術性」を、明らかに出来ないだろうか。これは、今にして思えば「第二の文献研究」的な方法を採っている。哲学では例えば責任について考えるが、そのために文献に当たる。そして一方で、今回のものは、魔術について考えるために文献に当たる。そしてその「文献」というものがそこで考えられるはずの現象(魔術)なのであった。これは哲学の例で言えば、哲学に於ける責任研究のために参照するものが実際の責任現象(ニュースで毎日報じられる犯罪者の逮捕情報でいい)である、ということに対応するだろう。しかし、責任現象は責任について何も論じてはいないが(そんな非効率的な報道があるものか)、『金枝篇』という魔導書、、、は、魔術的な現象でありながら、且つ魔術に関して論じているのだ。これは大いに見込みのある目論見だったように思う。
  • ところで『金枝篇』は、読んでみると案外、思った程、魔術的ではなかった。代わりに学術的だった。さあ、それならばそれで、「魔術的」と「学術的」ということを対立項に立てて、それなりの議論が出来るだろう(というかその辺までは腹案が出来ていたんだよ。ということでここに代わりに書いてみるか)。『金枝篇』は世界中の呪術的(著作内ではこの用語を用いる)な現象を集積し、それらに通底する原理(法則)を見抜いている。フレイザーはそれを「類似の法則」と「接触または感染の法則」と呼ぶ。諸々の呪術的現象は夥しい数の文献からの抜き書きであり、それらにはきちんと典拠情報が記されている。この辺りが、誠に学術的であると思った。さて、それでありながら、『金枝篇』は魔導書として扱われている(という文脈があった)。それではそれは何に因ってか。それは、一つには魔術を扱っているという事実によってであり(「魔術」を研究する文献は魔術的である)、もう一つには、正統的な学問からは爪弾きにされているという事実によってである(メインストリームにあるものは魔術的ではない)。そのように考えてみていた。実際、純然たるフィクション、、、、、、として『金枝篇』を扱うとき、私の中にも『金枝篇』の魔術性が復活したものであった。始めから嘘っぱちの、個人的な妄想の産物でありながら、これだけの大部の著作を、しかも参考文献付で書き上げたフレイザーを想像し、そんなうさんくさい、いかがわしい、けしからん、不健康な本を刊行してしまう国書刊行会のことを思うとき、魔術性を感じるのだった。そして魔術について述べ、決してメインストリームとはなり得ない文章として配布される私のレジュメは、これもまた魔術的な文書であるはずなのだ*5。――もしかしてこのようなことを書けば、あのレジュメはもう少し何とかなったのだろうか。まあそのことはもう考えないことにしよう。
  • さて。話を少し戻そうと思う。おれは第一の意味での文献研究が苦手だ。と思う。というか繰り返しになるが、あんまりやったことがない。それなので何とかして第二の意味での文献研究にしたい。だがそれは不可能かも知れない。何故と言って、おれは魔術的な現象に出会ったことが極端に少ないから。
  • それでは何か魔術的なテキストを読んで、それに対する読解を試みてみようか。これは多分「批評」と呼ばれるだろう。例えば、「召喚魔術」について書いている本を読み、そこに見出される「(召喚の)魔術」を、技術論の観点から読み解いてみるの、ということを画策している。これは、方法論的には第一の文献研究に属すると思う。というのも、その論者が、何を、どのように書いているかに関わる論考だからである。そしてそれは、読者がそうした「(召喚の)魔術」に心当たりが無くてもよい。
  • よく分かんなくなってきた。「批評」は一種の読解という行為だと思うのだけれど、そこで論考の対象となっているのは何らかのテキストであると。これはどうも、第二種の文献研究であるっぽい(さっきと矛盾している。どちらなのだろうか)。というのも、それは本という所与のものに対する自分の考えだからだ。その他の文献(二次文献)は、自分が考えるために利用される。では、第一種の文献研究とは、どのようなものを指すことになるか。それは――、諸々の文献に書いてあることをそのまま無批判に受け入れて、集積することだ、としてみよう。すると、文化人類学書としての『金枝篇』は、厳密にはこの第一種の文献研究ではないな。というのも、フレイザーは数々の文献から情報を収集しているが、その上で自分の見解(呪術の原理)を示しているから。それでは、じゃあ、第一種・二種という区別は一個の研究に於ける文献の比重の問題なのだろうか。そうかも知れない。幾ら夥しい文献を調べ上げたとしてもそれだけで終わりにしてしまうような研究があるとは思えない。思い返してみれば、第二の文献研究というものは、自分の論考に対して他の文献が従の位置にあるということである(だから実は、「文献」研究の名に値しないとも言える)から、そういうことになるだろう。「批評」は、文献、、について(必要に応じて)文献、、を使用しながら考えているというわけなので、論考の対象となる所与が文献であるというだけで他の文献は従だよ、とも言えるが、その対象となる文献がそもそも無ければ始まらない研究でもあるので、文献というものに多くを負っているとも言える。まあその辺はお好きなようにでいいよね。
  • まあ、もういいかな。もういいよね。結論らしいものを明確に述べ直す必要は、今はないでしょう。どれを結論にしたらいいかを考えるのも面倒ですし。

*1:嘘。だが今回の文章に関する限りそれでよい。

*2:今は「魔術」と「呪術」の差異を問うていない。

*3:だから実は、哲学は文献がなくても出来る。はずだ。ソクラテスプラトンに先行する哲学文献が無いにも拘わらず(まあ実はあるんだけど)、彼らは哲学(哲学研究)を行っている。或いは、現代でも参考文献無しに哲学の論文を書く人がおり、恐らくこうした人を、本来の意味で独創的だと言うのではないか。

*4:これはどうも付記しておかないとならない気がするので付記しておく。おれが最近襲われている思考的な弛緩は、これに由来しているかも知れない。というのも、こう言っちゃあなんだが、第一の文献研究は思考力をさして要さないように思われる。必要なのは手際よく情報を集積し、まとめ上げる能力ではないかな。また、小説を読むことはそうした能力も要らないように見える。無論、小説について研究をする(こういうことを「文学研究」と呼ぶのかも知れないが)場合には、そうした能力が必要なのだろうけれど。――もしかしたら「文学研究」は第二の意味での文献研究かな。というのは、問題としている文学的なテキストを既に見知っている必要があるし、種々の先行研究はそれについて考えるために使われるのだから。

*5:そして恐らく、そうしたことをすることも、魔術的なことであり、それは魔術の実践であるかも知れない。