昔の紫本の記述を読むと時の流れを感じずには居られない。と言うのは誤っているかも知れない。何しろ時は流れていないかも知れないからだ。が、まあそんなことは今はいいだろう。「今」は。
 たまにはこの紫本の書き手が紫本にそういう悔悟めいたことを書くのも、紫本の読み手には興味深いことかも知れない。その紫本の読み手なるものはこの私の同時代人ではないかも知れないが、ともあれ、紫本を興味を持って読もうと思う人には、興味深いことかも知れない。
 このあいだのイベントにより、ハイデガーはかなり大事なことに着目していたのではないか、という思いを抱えている。実存? まあそうなのかも知れない。それにしてもアリストテレスがニコマコス倫理学の中で言っていることは多分本当であり、倫理学のようなものは、老成した者だけが、或いは精神的に老成した者だけが、その真価を理解するのではないだろうか。多分そうなのであり、実存に関することも、多分そうなのだ。若い時分の一年よりも、年老いてからの一年の方が重要に思われるのだ、と、私のかつての同学の初老の男性が言っていた。それは多分本当だ。
 もっと大事なことに時間を使わなくてはいけない。恐らく、不老不死を願う者が本当に望んでいるのは、願っている当該の時分が永遠に続くことではなく、老衰により死んでしまうことがないことであろう。